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from: クマドンさん
2019/06/07 05:29:34
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マインドフルネスの会
マインド・フルネスの会だった。
「テク・ナット・ハン」を師事するIさんによってこの会が始められた。
私は、数年前に彼から教えてもらい、実践したことがあった。
その後、彼は修業の道を歩み、今に至っている。
ある講座の講師として活躍もしていた。
続けることのすごさだと、いつも感じる。
古民家が会場だ。
吹き抜けの高い天井。
板の間の20畳以上の広さであろうか。
そこに、その日に集った十名が車座になって座る。
初めての人が多い。
こうした出会いにときめきを感ずる。
これを「場の共有」と言う。
その同じ場を共有する・体感する。
その時、感じたことを独り独りが言葉にする。
言葉にすることで、その人が感じられる。
時には、生き方が。悩みが。想いが。思想が。生活理念が。性格が。
言葉は、そうした目には見えないものを顕わにしてくれる。
そこに、共感が生まれ、共鳴が生まれる。
時には、「そうかな」の違和感もあるが、それはそれでスルーする。
そうやって、自己開示をしている内に、
その人を好きになることがある。
こうした自己開示は、家族でも同僚でも行うことは希なことだ。
初対面の私たちは、私たち自身をその場に晒す。
そのことの心地よさも、この「場の共有」にはある。
「チェックイン」から会は、始まる。
そもそも、私は何者で、どこから来たか。何をしているか。何をしたいか。
短い語りで、今、ここに居る自分自身を確認する。
こうして書くこともそうなんだが、
感じていることを、確認する。
感じたままに、他人に伝える。
これって、自分にとっての自己発見そのものではないだろうか。
まず、感ずる。
その感じを、その感じたままに伝えようと言葉を選ぶ。
その時、ぴったと言葉がその感じそのものとなるとき、
「ああそうか」と、気付くのは、私だった。
「今、ここで、感じていることは、これなんだ」と、
その感じたことの「意」を「味わう」。
瞑想に入った。
半跏で座ると、板にくるぶしが当たり痛みを感ずる。
とにかく、酷く酷く疲れ果てていた。
立ったまま眠れる。
だから、私は、何も思わず、うつらうつらと眠ることにした。
十人の男女が車座になり、坐禅をして瞑想をしていた。
いろいろと妄想は、起きる。
ただ、そんなこと自然なこととほったらかしにする。
こうして黙って、呼吸を感じて、目を閉じている時間は、
私の日々の生活には無い時間だ。
何もしない。じっと座る。黙っている。ただ、そこに居る。
そうしたとてもとてもシンプルな姿を、
今の私には心からも身体からも求められていると感じた。
だから、不思議と落ち着き。時間がいつの間にかたって行く。
その後、感じたことをシェアする。
その言葉は、同じ場で、同じ空気感の中で、同じ体験をした人同志、
だから、分ち合える、共感し合える言葉となった。
その言葉を、ここに記したとしても、
きっとライブで体験していない人たちには、
その感じは伝わらないだろうなぁとも想う。
次に、歩きながらの瞑想だった。
自分の動きを俯瞰してモニタリングする歩き方もあった。
私は、インデアンウォークをした。
踵から足を降ろし、足の甲の外側でゆっくりと踏みしめ、
親指まで伝わったら、体重移動するという歩きだった。
こうして、体重を、重さを意識して、
または、その体重の移動を意識する歩きは、
登山の歩きだと、その時は感じた。
それから、最後の瞑想は、半分気持ちよい眠りの中だった。
自分のことをそのままにする。
他人のことを忘れる。
自分だけを感じ、自分だけとに向き合っていく。
感じたことだけを、言葉にする。
思ったことではなく、感じたままにだ。
その言葉だけが、この場では共有・共感される。
それは、ある意味、とてもとても貴重な体験でもあった。
自分の一日の生活の中に、この瞑想の時間を入れる。
「無心」に、「集中」して、「我を忘れる」、時間が過ぎる。
これからは、意識して、ほんの短い時間だけでも、
マインドフルネスの時間をとりたいと感じた。
毎月1回が、何だかとても楽しみになっている。-
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