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  • from: クマドンさん

    2019年06月18日 05時33分29秒

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    「探求型・対話型」の人を育てる人とは

    身体が辛いなぁ。
    いつの頃からか、酒が身体に残るようになった。
    歳なんだなぁと、つくづく感ずる。
    自分自身の身体の変化は、自分だからよく分かる。
    辛くて、身体が難儀で、仕事を休みたいと、思うこともある。
    酒だけのせいではない。
    いろいろなものがこの身体と心に溜まっている。
    それをデドックスして、浄化する必要があるようだ。

    日曜日にあるWSに参加した。
    ひょんなところで、ひょんな人との出会いがあった。
    「探求型・対話型の教育」をどう学校現場で創って行くかだった。
    私は、いつもこうした新しい風を感ずると、
    その反面の虚しさを感ずる。

    トップダウンで、次の時代の教育は、これだと言われる。
    文科省からの通達もある。
    多くの研修が行われ、その考え方の衆知が図られる。
    たくさんの文献・書物が出版される。
    その言葉は、どんどん現場に浸透して来る。
    「総合的な学習の時間」がそうだった。

    しかし、現場はどうか・・・。
    本当に「探求型・対話型」の教職員はどれだけいるのだろうかの話だった。
    根本から何かを変えようと思っている人は、少数だと思う。
    いつものようにいつもの仕事をこなすことに精いっぱいで、
    それどころの話ではないというのが現実だろう。
    教室では、評価する人だ。
    何かを変えることをとても恐れている人だ。
    子どもたちの自由と創造を、許せない人たちでもある。

    「言われた通りにする」
    「余計なことはしない」
    「みんなと同じにする」
    「尖がった子どもは迷惑だ」

    集団の中に担任が勝手に決めた人間的な尺度・基準。
    本当にそれを忖度して、それに従い、文句も言わず、そうなろうと努力する。
    その子の評価は、当然その担任からは高くなる。
    その反対の子が居たとしたどうだろう。
    その子は、その担任にとっての「問題の子」になる。
    「困った子」となる。
    当然評価は、全く低くなるだろう。

    小さな集団で行われていることは、これだった。
    担任という長が居る。
    どうあがこうとも、どうしてもその人とは会わなくても、
    例えば、その人のことが嫌いであろうとも、
    子どもたちは、その教室に毎日通って行かねばならない。
    そして、「困った子」は、よくよく叱られる。

    つまり、担任の価値観や個性、人間性に、合わせているのが子どもたちだ。
    もし、大変な人が担任であったら、
    確かにその子にとってのその1年間は、災難なんだろうなぁと私は想う。
    その人に「探求型・対話型」を求めることは、とかく無理な話だ。
    この人たちにとっては、自由である子。創造的である子は、怖れでしか過ぎなかった。
    自らが、真面目で、人の目を気にして、人からの高い評価を受けるために、
    何だかそのことのためだけに、汲汲と努力して今の立場となった人たちだ。
    その人たちに、その「出過ぎた釘」を出過ぎたままにすることは、
    とかく無理な話だった。

    何故なら、理解できないからだ。
    そうした存在を、自分勝手・我がまま・やりたい放題と、許せないからだ。
    その人のコップは小さく、キャパは少ない。
    そのコップの中に自らを押し込める子は、「いい子」と褒められる。
    そのコップの中に自ら入ろうとしない「困った子」には、制裁が加えられる。
    評価は、この二人の子では、全く逆になる。
    担任の言うことを聞く従順な子か、それとも反発する自由な子か。
    教室とは、個が独り独りその存在として絶対的に認められる場ではなく、
    時には、こうした担任の裁量・度量によって裁かれる場となってしまうこともある。

    実は、教職員自身が、探究的に自分の生き方を考え、
    学校という制度そのものを根本的に見つめなおし、
    子どもたちの為に何をどう変革したらよいのかを「問う」ているなら、
    その生き方に徹している子どもたちの評価は、全く違ったものとなるはずだ。
    教職員同士が真摯に公平な立場で「対話」し、
    相手の考え方や価値観を尊重し合い、学び合うならば、
    きっと、子どもたちにも「対話型の人」として、
    子どもたち独り独りを尊重して、その心の声に寄り添える人となるはずだ。

    つまり、自分がそうではない人が、
    そうなりなさいと、そうである人たちには教えることはできない。
    そういうことが、また、学校で起ころうとしているということなんだな。

    私自身の「問い」は、「私は、探求型・対話型の人であるか」だった。
    そして、現場ではどのようにしてそうした教職員を育てるかである。

    子どもたちは、日々学び、日々変わる。
    それは、成長しているからだ。
    ところが大人はどうだろうか・・・・。

    学ぶことを、変わることを、一番恐れているのは大人なのではないだろうか。

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