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  • from: クマドンさん

    2019年07月23日 05時40分42秒

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    目にはみえないものは

    目には、見えない。
    でも、ここにいる。
    そこと、どこかで深く繋がっていることの安心感。

    私からは、いつもそこへの呼びかけ、語り掛け。
    そこからの返信は、無いかもしれないが、聞き入れられている安心感。

    不思議なんだなぁと、振り返る。
    すると、全てのことが、そうなるはずだったで、落ち着く。
    今、ここに、私が存在していることは、
    それは、不思議な世界での働きの1つ。

    あの舞台の上での切実な、真摯な、全知全霊の祈願だった。
    その祈願に感動する。
    それは、深い深い信心だからだ。
    「信ずる」ことができることは、「幸い」である。

    私たちが「信ずる」ものは、目には見えない。
    それを、どう説明することもできないし、そんな気持ちは全くなかった。
    いいんだ。私には、いてくんなさるんだから。
    いつも分別の中で生き、世間体の中で生き、他人の評判の中で生きている人。
    きっと、その人たちにとっては、見えないもの。
    そこと繋がっていたら、その生き方は、決して今のような生き方ではないはず。

    目には見えないものとは、繋がって生きることが幸いへの唯一の道。
    そのことを日々、是、新たに感じつつ一日を生きる。
    一日だけ生かされる。
    そんな気楽さ、安らかさ。
    何とかなるてば。大丈夫。大丈夫。任せていればそれでいいんだがな。
    そんなのんびりとした生き方ができるのは、
    この目には見えない大いなるものとの繋がりを実感するからだ。

    「無心について」を読みながら、感じたことは、
    数年前だったら、この言葉はきっと腑には落ちなかっただろうということ。
    大拙さんは、その実体験・実感・信仰を、言葉に置き直した。
    言葉とは、その実感と一体で在る時、深く深く語るものだ。
    ただし、それを受けとる者に、
    その言葉で顕わにされた実感・実体験があるかないかだ。

    歳をとるということは、それだけ多くの苦労と哀しみと挫折とを経ることだ。
    若い者とは違う、落ち着きや、見通しや、知恵があるとしたら、
    それは、この人生の道をとつとつと独り歩きながら気付き、発見したことが、
    その人には蓄積されているからだ。

    しかし、「いかに生きるか」の「問い」を持たず。
    見えるものや、世間体や、他人からの評価ばかり気にしている人や、
    人を見下し、他人を馬鹿にして、我がままに、増上慢に生きて来た人は、
    いくら歳をとっても、人としての実りが乏しいことは、
    いろいろな場面でよくよく感ずる。

    私は、ふっ潰された。粉微塵に打ち砕かれた。粉砕された。今も、そうだ。
    しかし、そのおかげで、今、ここの、
    落ち着きと安心とを得られたことを感謝している。

    信じて生きることしか、この孤独の人生の歩みを、幸いに変えるものはない。
    「お任せします」「計らい無し」「そのまんまでいい」
    何だか手を離し、余計なことは考えず、
    我執が出て来たら、そっとその我執にどいてもらう。
    自分が先ではなく、いつも相手を先にする。
    自分なんかどうでもいい人として生きる。

    そこに、仏心があると教えられると、「はい」と答えられる。

    しかし、この一番大事なことを、人は、子どもに、若者に教えない。
    「人に勝て」「自分が損をするな」「人なんかどうでもいい」とかなんとか・・・。
    今の世の中、世間とは、そんな愚かで、生き難い場所になったのではないかなぁ。

    目には見えない、ひの働きが教えることは、
    全く、逆のことのように想われる。
    私は、そっちの道をだから信じて歩くことに決めた。
    すると、本当に「言葉」が沁みて来る。

    何が言いたかったのかは、よくは分からないが、
    私は、その周りの人たちの中に居ても、孤独であると言うことと、
    孤独ではあるが、この目には見えないものと繋がり、
    いつも対話し続けているということ。

    孤独であることで、人は決して孤独にはならないということ。
    今、ここで、こうして繋がっているから、安心しているということ。
    その実感は、信仰をもたなければ、きっと味わえないのだということ。

    その実感から生まれたものが、「言葉」なんだということ。
    つまり、その実感をもった人にとっては、言葉とは一体であるということ。
    初めに言葉があった。
    それを、信じられるかという「問い」そのものであること。

    そう想うから、そう生きているということ。

    noisumu

    それは、「no-isumu」なのだそうだ。
    NOとは、否定ではなく、「無」であること。「空」であること。
    無い時、きっと何かが顕れる。
    向こうから、顕れたい何かか、無いを通して顕れる。
    その極致を、金森さんは、追究してやまない、やまない。

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