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  • from: クマドンさん

    2019年09月23日 05時55分32秒

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    双子の星の物語

    小千谷のSさんと、久しぶりの電話だった。
    82歳になるSさんは、益々元気になっていた。
    いつも新しいことに感動している。
    元気は、心のありようなんだと、いつも学ぶ。

    自分の住んでいる街の周りの自然の探訪だった。
    朝早く、田んぼにでかける。
    まだ夜が明けないうちに、水の音を聴きに行く。
    カエルを探す。風の通り道を歩き続ける。
    どこまでどこまでも歩きたくなる。
    そして、疲れたら水の音を聴きながらあぜ道で休む。
    じっと水の流れと向き合い。自分自身と向き合う。

    毎日の生活を、旅とする。
    その発想には、共感だ。
    いつものようにいつものものを見るから発見も気付きもない。
    そのいつもの場所やものに、何かの変化を感ずる。
    「あっ、そうか。そうだったんだ」という、感動。
    それは、私の小さな庭にもあちらこちらに溢れていた。
    みんな、そんな変化なんか気に求めずに素通りする。

    しかし、Sさんも、私も、立ち止まる。その場にしゃがむ、座る。
    そして、じっと見つめる。じっくりと味わう。
    すると、「あっ、そうか、そうだったんだ」を感ずる。
    そんな発見や気付きが、日々の日常の生活の中にたくさんある、ある。

    Sさんが言う。
    「時間がいくらあっても、足りねてば」だ。
    ここに居るだけで、こんなにも幸せに、豊かになれる。
    それは、私たちがやっと分かったこの感性にあった。
    「実感だね」と、Sさんは、しみじみと語る。
    私と、Sさんは、その実感を、実感だねで共有できる。
    不思議なんだが、私の実感は、Sさんの実感であり、
    Sさんの実感は、私の実感でもあった。

    きっと実感は、同じ一つなのではないだろうか。
    別々の疾患であったら、
    こんなにも深く深く共鳴し、共感することは難しいと感ずる。

    いつも二人で確認する。
    「この実感に気付いて、よかった、よかった」と。
    Sさんは、「クマさん、82歳でやっと気付いたて。遅すぎた」だったが、
    私は、そうは思わない。
    「Sさん、気付かないで亡くなる人が大部分だと思います」
    「生きている間に、この実感を、実感として味わえる幸せですよ」だった。

    そして、思った。
    この実感を味わっていない人には、
    不思議だなぁを実感として信ずることができないのだと。
    今、私は、その実感を味わったことの無い人たちに囲まれて生きている。
    つまり、この実感を言葉でなくとも共有できる人たちではない、
    その人たちの間に生かされている。
    そのことが、いろいろな試練を通して、明確になって来た。

    実感を味わった人か、そうでない人かの違いは、
    飛び越えることのできない全く異次元の違いでもあった。
    だから、その人たちとの出会いでは、語らない。説明しない。黙っている。
    どれだけ頑固に頭で考え、他人の言葉と自分の言葉をないまぜにして、
    強気でぐんぐん語る人には、会いたくはないし、直ぐ降参する。
    その私の立ち位置が、より明確になったということだった。

    「賢治の会」で、「双子の星」を朗読して、互いに語り合った。
    私は、この物語には、「悔い改め」と「魂の再生」が描かれている気がした。
    小さな海蛇が登場してから、物語の世界は一変した。
    チュンセ童子とポウセ童子の本当の姿が語られるからだ。
    「あなたがたはどうしたのですか。悪いことをなさって天から落とされたお方ではないように思われますが」

    「お前には善い事をしていた人の頭の上の後光が見えないのだ。悪い事をしたものなら頭の上に黒い影法師が口をあいているからすぐにわかる。お星さま方、こちらにおいで下さい。王の所へご案内申し上げましょう」

    「あなた方は、チュンセ童子とポウセ童子。よく存じて居ります。あなたがたが前にあの空の蠍の悪い心を命がけでお直しになった話はこちらにも伝わっています。私はその話をこちらの小学校の読本にも入れさせました。」王様の語り。

    「王様はこの私の唯一人の王でございます。遠いむかしから私めの先生でございます。私はあのお方の愚かなしもべでございます。いや、まだおわかりになりますまい。けれどやがておわかりでご゛いましよう。」

    その時赤い光のひとでが沢山出て来て叫びました。
    「さようなら、どうか空の王様によろしく。私どもがいつか許されますようおねがいいたします。」
    「きっとそう申し上げます。やがて空でまたお目にかかりましょう。」

    見るとあの大きな青白い光のほうきぼしはばらばらにわかれてしまって頭も尾も胸も別々にきちがいのような凄い声をあげガリガリ光って真っ黒な海の中に落ちて行きます。「あいつはなまこになりますよ」と竜巻がしずかに言いました。

    「海の王様が沢山の尊敬をお伝えして呉れと申されました。それから海の底のひとでがお慈悲をねがいました。またわたしどもから申し上げますがなまこももしできますならお許しを願いとう存じます。」

    そして、二人は銀笛をとりあげます。
    東の空かが黄金色になり、もう夜明けに間に合いません。

    さてさて、ここを語る人が居なかった。
    私も、そのことを語れなかった。
    それは、この二人の童子の実感をもっているか、どうかだったからだ。
    Sさんなら、この童子の優しさ、慈悲の心を味うことができるだろう。
    しかし、不思議だなぁを感じていない人たちにとっては、
    それは、ただの子どもたちに語る物語としてしかとらえない。
    そして、固い頭の常識的な大人の世間的な視点でしか解釈をしていない。
    だから、それはそうなんだが、本当はこうなんだと、
    私は、語る機会を失してしまった。

    と言うか、二人の童子を描いた賢治の心は、信仰そのものの心であった。
    それは、信仰をもつものにしか、理解できないものでもあった。
    この物語は真実の物語だ。
    この物語は私へ賢治さんが語りかけてくれる物語だ。
    「私」のこととして物語を味わわない限りは、
    この物語の命は、その人の命にはならないのだった。

    そんな違和感を、感ずることが多くなった。
    だから、稀有な生存者であるSさんと語ることが愉快なんだな、幸せなんだな。

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