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from: クマドンさん
2019/10/08 06:04:38
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聴く耳があれば
昨日、職場にT叔母か携帯に電話があった。
私は同僚から教えられて、すぐに彼女に電話した。
「クマさん、施設の人が、会いたい人が居たら会わせてまださいだって」
叔母のその言葉を聴いて、その時が近いことを私は感じた。
その時は、みんな同じだ。
しかし、せっちゃんには、後、僅かしか残されてはいない。
それでは、生きている私たちは、その死に逝く人に何ができるかだ。
まず、会いに行くことだ。
そんな日に限って、飛び込みの会議が入った。
勤務時刻はとっくに過ぎている。
仕方ない、これは子どもたちのための大事な問題だ。
何とかみんなで知恵を出し合い、善い方向に動き出すことができた。
病室の個室は、静かだった。
広い個室に、ポツンとせっちゃんのベットが一つだけ置かれている。
その空間が、何とも言えない静けさと、清浄感だった。
「来たよ。誰らか、分かる?」と声を掛ける。
一昨日会った時とは、また違ったせっちゃんだった。
意識が見えない。
大きな息を何回かした後、暫く息をしていないような感じになる。
息が止まったのかと、心配していると、
また、すーっと音を立てて息を始めた。
せっちゃんは、息で生きていた。
妹の家族が来てくれた。
せっちゃんのベットの脇に椅子を置いて
妹と旦那と次女と私とが、せっちゃんを囲むようにして座った。
楽しかった昔の話をせっちゃんに聴かせた。
妹は、「ずっと忘れていたなぁ・・・」の話だった。
親戚で集まって味噌造りをしたことや、
正月やお盆に叔父たちも集まり、酒宴をして、賑やかだった話だ。
きっとせっちゃんも、笑って聴いてくれていたことだろう。
そんな時には、せっちゃんのおはこの美空ひばりだった。
叔父さんたちが軍歌を歌う中、せっちゃんは昭和の歌謡曲を熱唱する。
声がいいのだ。歌心もあり、小学生だった私にもその想いは伝わった。
そんな歌が、もう何年も聴いいない。
「この前さ、せっちゃん、また美空ひばり歌ってよって言ったらさ」
「何と、ああああーあああーって、声が聴こえたんさ」
「あれって、絶対にせっちゃんが歌ってくれた美空ひばりらぜ」と、
私が妹たちに話した。
妹たちは、「そうなんだ」と言いながら、話がそこで終わるところだった。
すると、聴こえるのだ。
「あああーー、ああああ、」って。
叔母ちゃん話を聴いていた。そして、妹たちのために歌を歌ってくれた。
「ほらっ、ほんとらろ。歌っているろ」と、私も驚きだった。
「叔母ちゃん、河の流れのように・・・らね。ありがとね」
妹がそう言うと、その「あああ」が川の流れのようにに聴こえるのだった。
37度7分あった叔母ちゃんの熱が、すーっと下がったようだった。
妹が額に手を当てると「冷たいげ」と言っていた。
「まだ生きてるがんに、何言ってんだ」と、私は笑いながら言った。
何だか父の臨終の時もそうだったが、
清々として、粛々としながらも、冗談や笑い話で、
その部屋には何だか知らぬのどかな時間が流れるものだ。
妹の次女に、彼女が父を何度も生き返らせた話をした。
これは、本当に父の臨終で起った、とっておきの笑い話だ。
みんなして、腹を抱えて、笑った。笑った。
熱が下がって楽になったのか、
せっちゃんの呼吸が静かに、一定のリズムに戻った。
そして、しばらくしたら、いつもの行動が繰り返されるようになった。
首を少しもたげて、足元をじっと凝視する。
確かに、その眼差しの先には、誰かの訪れを感ずる。
私は、せっちゃんの瞳に、私の背後の存在を感じ、せっちゃんに話しかける。
「誰が来たん?ハルさんだけ。フケさん。昭吾さん。」
きっと愛する人たちが、せっちゃんに会いに来てくれたのに違いなかった。
せっちゃんを通して、私は、その異界との繋がりをいつも感じた。
それは、目の前のせっちゃんが、その人たちと出会い、驚き、感動しているからだ。
死者は、死者として、目には見えないが生存している。
「魂が分かれば」と、池田晶子のコトバだった。
魂を信じられると、死者はここに、この傍に佇んでいてくれることを信じられる。
そして、死者の生存を想えば、死者との対話はリアルなものだ。
だから、私は、時折、死者である父や母に語り掛けている。
その父や母の声は聴こえなくとも、この語りかけは聞き届けられていると信じられる。
それは、時には、祈りとなり、私の深くから生まれるコトバだ。
向こうとこっちとを行き来しているおばちゃんを見ると、
おばちゃんの感動を通して、私はいつも死者を実感する。
そして、そのおかげで、おばちゃんと会いながら、
その死者たちとの邂逅をしみじみと味わうことができる。
臨終を目の当たりにすることで、
生きている私は、死に逝くせっちゃんを通して、
死者である、父や母とまみゆることができる。
これは、臨終を迎えた人と共に在る幸せな時間だった。
「ありがとね。せっちゃん」だった。
だから、こうして私はこの部屋に通い、妹も会いに来た。
「人間は、棺桶の蓋だな。昔の人はよく言ったものだ」と、
次女にその意味を教えた。
「俺が、俺が、で死んだ者には、誰も手も合わせないだろうな」
「でも、せっちゃんのように貧しくとも施した人には、
やっぱりこうしてみんな集まり、ありがとうなんだな」
「生きている間ら」
「みんな人は死なねばならね」
「何で坊主がここに来て、せっちゃんを安心させてくんねのかね」
「どう生きているか。その問いが、臨終に立ち会う生者たちの課題なんだ」
「善く生きたいなぁ」と、私は、今、人生の壁に立ち止まっている次女に語った。
それは、せっちゃんからのメッセージだ。
今朝、読んだ「沈黙の作法」山折哲雄・柳美里著の一節をここに記す。
「落日の中にも死者の声は響いている。風の音にも、波の音にも、鳥や虫の声にも、
むしろ聴く耳があれば賑やかなほどに。
死者の声というのは、時と共に薄れ、いつか消え入るのではなく、
響き続けるものではないでしょうか」 柳 美里
「感ずるところに在る」
「自然の中に、神の声、仏たちの気配を感ずる」 山折哲雄
さてさて、生者たちの修業とは、その死者の声を聴くことである。
そして、その死者たちの言うがままに、ただ生きられるかどうかではないだろうか。
ひの声を「聴く耳」があるか。
せっちゃんは、どうしているだろうか。
まだ、知らせは届かない。 10月8日(火) 午前6時2分-
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