新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

親父たちよ

親父たちよ>掲示板

公開 メンバー数:63人

チャットに入る

サークル内の発言を検索する

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: クマドンさん

    2019/10/19 08:09:41

    icon

    授業「雨にもまけず」

    昨日、「雨にもまけず」の研究授業だった。
    この歳になって研究授業をしようとは想ってもみないことだった。
    人生とは、確かに何が起こるか分からないものだ。
    つまり、何でも起こりうるのが、この人生というものだ。

    私は、職場に車で向かう途中に、
    本当に、その途中に、五頭山が遠く曇って青く見える景色を見ながら、
    「ああ、あれって、仏様のことだったんだ」と、はっと気付いた。
    それは、
    「東に病気の子どもあれば 行って看病してやり
     西に疲れた葉はあれば 行ってその稲の束を負い
     南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくていいと言い
     北にけんかやそしょうがあれば 行ってつまらないからやめろと言い」

    この、「行って」という、そこに行ってその人たちを助けるものとは誰なのか。
    それを、私は、ずっとずっとこの歳まで、賢治さんだと想っていた。
    しかし、昨日、突然はっと気付いたことは、
    この「行く」「もの」とは、仏様のことではないのか。
    「阿弥陀様のことではないのか」という、気付きだった。

    実は、私は、その試練に合い、苦しみや痛みにあっている最中に、
    いつも祈り、助けを求めていたものだった。
    もう自分の力ではどうにもならない時に、
    やっと心の底から神様への助けを求める祈りができる。
    それは、必死な祈りであり、
    神様しかいないという本気な祈りだった。

    すると、祈ると同時に、その瞬間から、
    その祈りは聞き届けられたという実感を感じた。
    こんなにも切実に真摯に神様に祈ったことのない祈りだったから、
    その祈りは、抱き留められた。
    確かに応えられている。
    この苦しむ傍らにちゃんといてくださっている。
    私はその傍らの眼差しに見守られている。

    それは、溺れてもがき苦しみ、今にも沈もうとする瞬間に、
    がっと私の腕を力強くつかまれ、引き上げられたような実感。
    その救われたという実感が、感謝にかわる。また、祈りとなる。

    それは、熱に苦しみ、痛みに苦しむ、その子どもの感ずることである。
    それは、いつ果てるともない農作業に疲れ果てている母の感ずることである。
    痛みや、辛さや、苦しみの傍らに、神様はいてくだっている。
    それは、これから死のうとするせっちゃんだ。
    「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏だよ」との念仏だ。
    その念仏だけで、せっちゃんは必ず阿弥陀様に救われたはず。
    「互いに愛し合いなさい」との教えを知りながら、
    いがみあい、ののしりあい、わがままに、ごうまんに、相手を馬鹿にし、否定する。
    そこにはほんとうの生きる意味は存在しない。
    自分を捨ててこそ、本当の自分らしく生きられると、神様は教えてくださる。
    「自分をかんじょうにいれず」だ。

    「ひでりのときは涙をながし
     さむさの夏はおろおろ歩き」
    どうにもできない。どうにもならない。
    ただただ、共に悲しむ。共に嘆く。共にその重荷を負うて歩く。歩く。歩く。

    「みんなにでくのぼうとよばれ
     ほめられもせず
     苦にもされぬ」

    本当だなぁ。でくのぼうがいなくなったな。
    自分のことなんか考えず、いつも人のことばかり考えている人や、
    人の痛みや苦しみを自分の痛みや苦しみと感じ、
    何とかしたいと、自分のものを人に施すことのできる人。
    その人を、人は、「でくのぼう」と呼ぶのだろうなぁ。
    賢治さんであり、良寛さんもその人だった。

    「そういうものに
     わたしもなりたい」

    私は、ここでどうして人ではなく、「もの」なのか、
    やっと腑に落ちた気がした。
    この苦しみや痛みや辛さの傍に行くのは、人ではない。
    だから、「もの」としか、言いようが無かったのだと私は考える。
    その「もの」こそ、賢治さんがなりたかった「もの」だった。

    しかし、賢治さんは、その「もの」に憧れつつも、精進しつつも、
    まだまだその「もの」に己がなっていないことも知っていた。
    この詩の前段は、そうした賢治さんの魂の修業の姿だった。

    農業という労働に勤しみ。
    自然にへこたれぬ丈夫な身体に鍛え。
    欲はなく、心静かに、平穏に生活をする。
    貧しい生活にも感謝しつつ、
    よくよく考え、問いを忘れず、問い続ける。
    野原の松の林のかげの小さな茅葺の小屋に独居しながら。
    賢治さんは、そういえ「もの」になりたいと日々精進していたことだろう。

    人は、菩薩になれるのか。
    人は、自分を捨てて生きられるのか。

    この詩を、賢治さんは、病の床で小さな手帳に記した。
    私は、何だか分からないが、授業の最中に、感極まって、涙を流した。
    わけはよく分からないが、
    何だか、涙を流し、おろおろ歩く、その賢治さんが、
    私も、きっと私も、ソウイウヒトニなりたいと、
    ほんとうの私が、そう想って、顕れたからではなかったのかと、
    わけはわからないが、今も、そう想っている。

    人は、本来ひととしてそういうものなのではないだろうか。
    しかし、あえてそういうものになろうとしないのは、
    そういうものを人はでくのぼうだと想っているからではないだろうか。
    そういうものになってしまったら、ひとから笑われ、馬鹿にされると想うからだ。
    だから、利口になろうとする。得をしようとする。自分だけよくなろうとする。
    そうすると、私の中のそういうものはどんどん深く深くに姿を隠す。
    私の欲望がきっと、そういうものの顕れることを望まなくなるからだ。
    我欲に充ちた私には、そういうものの顕れの場所がどこにもなかった。

    だから、そういうものと一体になり、
    私がそういうものであり、そういうものが私になるためには、
    修羅を歩いた後に、出家して、独りになる必要があるのだった。
    大きな罪は必要だ。心の闇も必要だ。辛い痛みや悲しみも必要だ。
    病も貧しさも、生きることの不自由さも必要なのかも知れない。
    その修羅をあるくことが人生であり、人生とは「苦」であると自ら悟る。

    さて、そのことに気付いたなら、その後の人生もその修羅を生きるか。
    その修羅の道には、救いはあるのか。救済はあるのか。喜びはあるのか。
    もし、この道ではなかったと悟ったなら、回心あるのみだ。
    それが、ここに居ながらの出家だった。
    それは、独りになること。独りで立つこと。独りで歩くこと。
    そこから、本当の人生の旅が始まるはず。
    その時、その「もの」は、道標として「問い」を授ける。
    私は、その「問い」に促され、「問い」に導かれ、ただ歩く。

    その時、我はもういらない。
    ここで我や欲を出すと、「問い」からの導きに素直に応えられない。
    我執を私が優先するからだ。
    すると、私が勝手に選んだ道により、
    また修羅に近づき、その「もの」から遠ざかる。
    すると、心に喜びはなく、虚しさを感ずる。
    道を見失った人は、我知らずに不安になるものだった。
    そこで、気付き、またもと来た道に戻るだけだ。

    農業という労働に勤しみ。
    自然にへこたれぬ丈夫な身体に鍛え。
    欲はなく、心静かに、平穏に生活をする。
    貧しい生活にも感謝しつつ、
    よくよく考え、問いを忘れず、問い続ける。
    野原の松の林のかげの小さな茅葺の小屋に独居しながら。
    賢治さんは、そういえ「もの」になりたいと日々精進する生活。これが原点だ。

    もっともっと考えを深めねばならないが、
    そういう「もの」になりたいのなら、
    そういう「もの」になれる生活を行わねばならないだろう。
    それが、本当の「労働」なのだと、教えてくれた人がいる。
    私にできることは、それしかないのだと、
    この授業を通して改めて学ぶことができた。

    「労働」と「仕事」は異なると、アレントは語る。
    そして、大事なことは「手仕事」なのだと言う。

    何だかね。まだまだ読み深めねばならないとも、今回のことで改めて思った。
    「雨にもまけず」には、信じて生きることの原点が顕わになっている。
    しかし、そのコトバを真に読み取り、
    それを己の生活の指針とできるひとがどれだけ今の時代に居ることだろうか。
    「でくのぼう」に、きっと誰かがならねばならぬのだ。

    私も、そういう「もの」になりたい独りだ。
    しかし、この道は遙か遙か遠く遠くだな。

    • サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

コメント: 全0件