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  • from: クマドンさん

    2019年10月30日 05時39分01秒

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    絶対矛盾的自己同一とは

    絶対矛盾的自己同一。
    西田幾多郎の言葉だった。
    「100分で名著」の若松英輔さんが、その意味を教えてくれた。

    私は、高校生の頃に、この言葉と出会った。
    全くこの言葉の意味することが分からなかった。
    絶対矛盾的とは何だ。
    自己同一とは何だ。
    自他の区別を超えたものなのか、
    それても自分を無くすことなのか。

    いわば、このコトバから発せられる「問い」と出会い、
    その「問い」に促され、
    いつもいつもその意味を思考しつつ、
    ああではないか。こうなのではないかと、頭で考えていた。
    理屈でそのものを理解しようと努力していた。
    禅の本を読み、先師の言葉を通して、
    同じ意味ではないかと思索した。
    しかし、そのプロセスからは、
    この絶対的な矛盾を自己同一することは不可能だった。

    そして、ここまで自分に与えられた宿命でもある人生を歩いた。
    いろいろな試練と出会い、多くの失敗と災いとの中を生かされた。
    それはそれで、そのつど私にとっては大いなる学校だった。
    そこを逃げない。
    そこを受け入れる。
    そして、どうして私なのかと、その宿命の意味を深く深く考えた。

    その考えている最中に、私は、コトバと出会った。
    それは、池田晶子さんだった。
    その案内役は、若松英輔さんだ。
    彼は、私の高校の後輩であることも後から知った。
    私は、N大の病室のベッドの上で、一冊の本と出会った。
    衝撃だった。
    もはやこれからの人生が全く予測できない状況に置かれ、
    痛みと苦しみに夜もぐっすりと眠られず、
    身体を動かすことすら難しい状態の中で、
    私は、考えることだけは、冴えていたように感じたる

    だから、絶えず、その「問い」の答えを探し求めた。
    このベッドの上の何も役に立たないでくのぼうに、
    生きている意味は、果たしてあるのか。
    いつ仕事に復帰できる見通しも無く、
    こうして病室で日々暮らしている私に、どんな希望が残されているのか。
    しかし、コトバは、その時、私に力を授けた。
    それは、天からの恵みである「意味」としての力だった。

    きっとそうなんだ。
    「意味」の無いものは、この世には一つも存在していないはずだ。
    存在すると言うことそのものが、
    天から与えられた「意味」なんだ。
    その「意味」を見失い、そもそも「意味」があるということを忘れたまま、
    人とは、生かされているのではないだろうかの、気付きだった。

    だから、自分がここに在るという「意味」こそ、
    私が、ここに生かされている「意味」なんだ。
    その「意味」に気付き、その「意味」を分かり、その「意味」を生きる。
    それが、この世で私が生きるということだ。

    苦難はありすぎるほどだ。
    悲しみは多い。
    悩みは尽きない。
    しかし、この「悲哀」を通してしか、
    私はきっとその「意味」の微かな光や、
    微かな呼びかけを感じられなかったのだと想う。

    臨港病院で内視鏡手術を失敗し、
    目が覚めたら地獄のような激痛だった。
    胆管を切断してしまい、胆汁が内臓を満たした。
    腹膜炎で、敗血症にまで至った。
    その段階で、臨港病院から見捨てられた。
    救急車で運ばれ、N大で生存率五分五分の10時間の手術。
    幸運にも一命はとりとめた。
    しかし、そこから長期の入院生活だった。

    今は、このことを感謝している。

    「悲哀」であり、「無常」である。
    そのことを実感する。
    深く深く諦める。
    それでも、人は、今日を生きねばならない現実。
    「絶望」のどん底であろうとも、人は、今日を生きねばならない。
    それは、どんな状況であろうとも、
    人にはその人としての生きる「意味」が必ず存在しているからだ。
    その「意味」と出会わない内に、その「意味」を分かたないうちに、
    人は、絶対に死なないし、死んではいけないのだと、私は思った。

    そして、その「意味」とは、ここにあるもの。
    みんなの内に必ず存在するものだ。
    気付くか気付かないかどうでもいい。
    ただねその「意味」は誰にでも、全ての人に、全ての命に「ある」ものだ。
    それを分析的に、客観的に見つめられない。
    何故なら、私の目が自分のことを見ることができないように、
    この「意味」そのものの私を、
    私がどうして見ることができるかの「問い」だからだ。

    「意味」は、1人1人の多としてみんなみんながもって生かされている。
    しかし、自分のことや、自分の欲や、自分の我執が優先するから、
    「意味」はそっと静かに水の底に沈んだままで、
    じっとその発見されることを待っているだけ。
    自分を自分だと錯覚している私。
    死ぬと言うことは、そんな「自分」が存在しなくなることだ。

    では、自分という「意味」は消えてしまうのか。
    いや、絶対にそうではない。
    この「意味」は、普遍な「意味」だ。
    それは、プラトンの言う「イデア」でもある。
    それは、ソクラテスの言う「魂」である。
    そして、その「意味」は、一つなんだ。
    私たちは、その一つの「意味」を共有して、生かされている私たちなんだ。
    つまり、1なんだな。

    「多即一」「一即多」
    このことを、信じられるか。

    今、この二階の窓から向こうにIさんのお宅の灯りが見える。
    90歳近くのご夫婦の生活だ。
    私は、そのIさんの老いの辛さ、苦労を想う。
    それは、私なんだなの、共感だ。
    Iさんは、私だ。

    私は、昨日、ゴスペル礼拝に参加した。
    心を込めて、気持ちよく、大音量の賛美をした。ゴスペルを歌った。
    何だかいつものように深く深くから涙が湧きだして来た。
    ああ、イエス様の愛って、これなんだなの感動だった。

    今は、「絶対矛盾的自己同一」だと思う。
    それしかないと、そう確信している。

    私がこう生かされるようになったのも、
    若松英輔さんと出会えたからだ。
    そして、生かされる「意味」と出会えたからだった。
    それは、「悲哀」と「絶望」と「苦難」の先にしか出会えない、
    神様からの恵みであり、愛であった。

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