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  • from: クマドンさん

    2019年11月21日 05時42分45秒

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    輝きを育てる

    昨日は、1年2カ月の成果の日だった。
    信じて、続けることだ。
    できるかできないのかではなく、
    できると信じてやり続ける。諦めない。途中でやめない。
    そんな一歩一歩が長い月日になると何かの形となってそこに顕れる。

    1人1人には本来の輝きがある。
    しかし、その輝きは、誰かに見つけられ、引き出されるものだ。
    なかなか自分でその輝きを発見し、
    その輝きの尊さに気付き、
    その輝きを大切に磨くことは至難の業と私は思う。

    こんな私にもそんなちっぽけな人としての輝きは与えられている。
    しかし、その自分自身の輝きと出会うまでには、
    多くの苦難と試練とを味わった。
    そして、そこには、いつもその自分で見失っていたその輝きを示し、
    「そこにある」「それを信ぜよ」と教えてくれる師や友が必ずいてくれた。
    不思議なものだ。
    私には「輝き」が与えられているのに、
    私には、そのことが気付かれない。

    「こんなどうにもならない男はいないなぁ」の挫折と絶望だ。
    本当にそんな艱難辛苦の最中に居る時、
    その師や友が必ず私の前に現われた。
    そして、そんな自分のことを人として認め、尊重してくれた。
    人から、そうした勇気と励ましの言葉をもらう。
    人から、大丈夫と倒れた私を再び立たせられる。
    そして、「私はけっしてクマさんを見捨てない」
    「私は、深く深くでクマさんのことを信じ、尊敬している」との言葉。

    これが本来の慈悲であり、深い深い愛である。
    愛があれば、人は必ず育つ。
    愛は、その人本来の輝きに気付かせ、その人の生まれた意味を悟らせる。

    つまり、生きる傍に愛する人が居ることが、大事なことなんだ。
    しかし、その愛する人に恵まれなかったら。
    一番愛して欲しい親から、その愛のかけらも感じられなかったら、
    その子の、その人の輝きは、失われてしまうのか・・・。

    いや、どんな状況であろうとも、その子、その人は、ずっと愛されている。
    その子、その人が、愛されない日は、一日も存在しなかった。
    この世に生を受けて、この世の艱難辛苦を受け続け、孤独で、辛く、哀しく、
    死んでしまいたいと思っていたとしても、
    その子、その人は、愛されている。

    それは、その子、その人として、この世に生まれた。
    そのことだけで、その慈悲と愛とを信じていい。
    実は、生きているとは、生かされているということ。
    生かされているということは、愛されているということに他ならないからだ。
    そのことを信じられるか、そのことを疑って生きて行くか。
    それは、全く違う生き方の道と鳴って行く。

    仏教には「長者窮児」の譬えがあり、
    聖書には「放蕩息子」の譬えがある。
    ここに、失われることの無い私たちへの永遠からの慈悲と愛が語られている。

    何をしたから。どんなことができたから。どんな能力があるから。
    人は、そのことで愛されるのではない。
    何かの条件を備えたら、達成したら愛するという愛は、愛ではない。
    放蕩息子そのものでいい。
    その息子がいつか必ず自分のところに返ってくるはずだと、
    その帰還を信じて、期待し、待ち続けるところに長者の愛がある。

    私にとっての師や友も、そうだった。
    私がいつか必ず正気に戻り、家に帰ることを信じて待っていてくれた。
    そのために、私のぼろぼろの着物の襟に「宝物」を縫い込んでくれていた。
    私は、その「輝き」に気付かず、放蕩し、放浪した。
    そして、はっと気づき、我に還った。
    だから、愛する父の待つ、故郷に還る旅に出た。

    そうだったなぁと、私は、思う。
    だから、私は、こうして不思議な愛に救われた。
    そして、分かったことは、いつでも、ずっと、
    この愛で育てられていないことはなかったという事実だ。

    私の庭の花たちが、この寒さの雨風の中でも育つように。
    庭に遊びに来る雀たちが育つように。
    その愛があるから、全てのいのちは育まれ、生きている。
    ならば、その愛をどうして疑うことができるだろうか。
    自分のことを振り返ってみても、
    私が生きて来たのではなく、私は生かされて来たのであって、
    その一つ一つには「意味」があったことを、62歳になって気付いた。理解した。

    私は、そうやって慈悲と愛とで、今、ここでも生かされている。
    ならば、その慈悲と愛とを確信し、味わっている私が、
    その慈悲と愛とを顕す人となる。
    それが、自然な慈悲と愛との願いではないか。
    とういうことで、今、ここで、私はその子、その人のために生きている。

    この世は、実は、慈悲であり、愛なんだ。
    そのことを素直に信ずる。
    それだけで、人は幸せに生きられる。
    そんな幸せを感じさせてくれる人が、私の師であり友でもあった。

    私は、その人たちから尊ばれた。信じられた。期待された。忍耐された。
    それは、その人たちを通してこんなちっぽけな私に恵まれた慈悲であり、愛だった。
    その慈悲と愛とによって私は救われ、ここに輝きを放てる人となってきた。
    だから、私にとっては実感なんだ。信仰なんだ。真実なんだ。
    そのことに、全てを委ね、お任せして今は、生きている。
    悩まないし、くよくよしないし、心配しないし、不安にならない。
    「どうにかなる」し、「どうでもいい」からだ。

    だから、私は、その子、その人を、そんな眼差しで見守る。
    そして、1人1人の中に在る「輝き」を信じて期待する。
    そのために、譬え話も、方便も、説教もする。
    時には、激しく怒り、時には涙することもあるな。

    その結果が、昨日の学習発表会だ。
    私は、子どもたちの素敵な輝きを見ながら、
    やって来てよかったなぁと、込み上げる嬉しさだった。

    人は、輝く。
    だが、その輝きを知らずに生きている。
    だから、「ほら、これだよ」と、教える人が必要だ。
    そして、その人は、根気強く、期待しつつ、教える。育てる。その力を引き出す。
    それが、本来の意味での「教育」なんだ。
    英語で言う。エデュケートの意味は、「引き出す」なんだな。
    その1人1人の輝きを引き出し、ほらと輝かせる人が、先生なんだ。

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