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  • from: クマドンさん

    2019年12月11日 05時40分47秒

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    独りなんだなぁ

    さてさて、歳をとったことで、いいこともある。
    それは、「どうにもならないことは、諦める」といういい加減な態度だった。
    私が、私でコントロールできる部分と、
    そうではない部分とを、しっかりと見極められるようになったことは、
    私のこんなぐうたらな生き方を、もっともっと楽にしてくれた。

    真面目な人たちは、目の前の現状と真っ向勝負を挑む。
    「何とかする」「何とかしなければならない」と、
    躍起になればなるほど、どつぼにはまる。
    自分自身を追い込んでしまう。
    その内に、「あれも駄目」「これもやれない」の無力感。
    出来ない自分を見つめ、ほとほと哀しくなってしまうもの。
    それは、きっと、やれないことを、やろうとしていたから。
    それは、「無理」なことを感じつつも、
    「何とかなる」と錯覚していたからのこと。

    私は、ある日から、「どうでも、いい」と思いつつ生きている。
    そして、本当に世の中は、「どうでも、いい」し、
    「いい、加減」なものだと悟った。
    だから、こうして数多の批判・批難・中傷を受けながらも、
    飄々と生きられる。
    「そんなの関係ねぇ」だからだ。

    自分の力の及ばないことばかりに、私は囲まれている。
    他者の性格は変えられない。
    他者の想いは変えられない。
    他者の物の見方・考え方は変えられない。
    それは、私のことではないからだ。

    また、私自身のことも同じことが言える。
    こうして生きている私の性格は余り変わらないと思う。
    私が他者に対して思っている想いも変わらないだろうと思う。
    私の物の見方・考え方がこうだから、「彼奴は」と言われる。
    それは、私のことで在りながら、変わらない私のことなんだな。

    つまり、「変わらない」「変えられない」と、「諦める」。
    そのことをしっかりと見極め、
    そのことで悩まない。愚痴をこぼさない。腹をたてない。怒らない。

    「まぁ、いいか」と、ほっておく。
    「どうすればいいか、自分で考えよう」と、距離をおく。
    「何とかなるさ」と、こだわらない。自分のせいにしない。
    「しばらく休もう」と、積極的に休養を入れる。リフレッシュする。
    つまり、自分自身のことを責め続けてどうするのかという「問い」だった。

    誰がやっても変わらないものは、変わらないものだ。
    その変わりようのないものを、変えようとするから辛いのだ。
    私に対する他者の目がそうならば、仕方ない。
    私は、甘んじてその批判を受ける。黙っている。それしかない。
    すると、とてもとても楽になる。
    例え、信用・信頼をその他者から失ったとしても、
    私は、私で、他者ではない。
    その他者の考えるような人でない。また、そういう人になろうとはしない。
    いろいろと味わってみた結果、このことが結論だった。

    真面目で、人の評判を気にして、人からどう思われているのかが不安な人は、
    いつも、他者からの視線や評価を気にしている人だ。
    「できないやつだと、思われたくない」
    「いい加減なやつだと思われたくない」
    だから、一生懸命に尽くす。励む。努力する。それは、当たり前の事。
    ただし、そうした他者目線を過敏に感じ過ぎると、
    ろくなことはないということを、私は苦い苦い経験から知っている。
    私は、心の病に2回もかかった。
    その時の気持ちが、これだったな。

    どうにもならないものを、どうにかしようとあがいていた。
    何だか自分がダメ人間だと、周りの人が想っているのではないかと焦っていた。
    しかし、心が焦れば焦るだけ、仕事の処理能力が落ち、仕事が溜まった。
    今、ここで、何とかせねばならない現実があっても、
    以前には何でもないまま対処できたことが、対処できない。
    思考が止まる。判断ができない。決定ができない。ぐるぐる回る。
    そのうちに、職場に行くことが怖くなる。
    何だかこのまま消えてしまいたいと思うこともある。

    そして、私は、こうして歳をとって、思ったことは、
    やっぱり「変えられないことは、変えられない」んだと言うことだ。
    「仕方ない。」
    「これは、今ではないんだ。」
    「誰がやっても同じだよ。」
    「また、いつかできる日が来るよ。」
    「長い目で見て行こうよ。」

    そんな悠長で、のほほんと、のんびりした気持ちで少しは生きられるようになった。
    「駄目だったら、辞めればいいさ」と、肚をくくった。
    他者からの批判・評価をどこふく風と聞き流した。
    そんなの「どうでも、いい」ことだ。
    人のことをとやかくいう人のことを、私は全く尊敬できないからだ。
    その人から、何を言われても、気にする必要は無い。
    私は、その人が勝手に想っている人ではないと、知っているからだ。

    大事なことは、私で立つこと。
    独りで、生きること。
    自分自身と向き合うこと。
    そして、自分のことを大事に想い、尊重することかな。

    人は、孤独であるべきだ。
    それは、家族の中においてもそうだ。
    父親だから、夫だからではなく、独りの人間として孤独に生きる。
    そのことに気付き、そうである自分自身を発見するために、
    あの鬱があり、大手術で生死を彷徨ったのだと、思っている。

    その最中では、ただ「どうして、私だけが」となってしまう。
    それは、仕方ない。
    でも、私は、そこから学んだ。
    人は、独りなんだ。
    人は、人を頼るから、人に期待するから、孤独になるんだ。
    本当に私が自立したら、独りになるのだろうか。
    そんな不安と絶望に近い暗闇の連続の日々だった。
    「明日は、あるのか」「復帰は、できるのか」「また、歩けるのか」だった。

    でも、ここで生きている。
    よれ身軽に、より独りに、より気楽に、他者の目を気にせず、
    ただ、信仰をもって、飄々と生きられている。生かされている。
    そんな日は、誰でも必ずやって来るようだ。

    ただし、他者からの身勝手な批判や評価の目から自由になれば。
    ただし、変わらないものと変えられるものとの見極めをつけられたら。
    ただし、人には依存せず、期待せず、独りだけでも心を充実して生きられたら。
    あとは、絶対に変わらないものを信じられたらだな。

    そうした真実な生き方が、その暗闇の先に必ず待っていてくれる。
    私は、何度もその絶望の暗闇を独り歩き続け、トンネルを抜けた。
    私は、こんなことなら誰かに話せると想い、
    ここにそんな想いを書き続けている。

    あなただけではない。
    もっと苦しんでいる人たちが数多なんだ。
    しかし、その苦しみは、いつか必ずぬけられる苦しみだ。
    独りで生きる。
    その道だけが、そのトンネルを抜ける唯一の道かもしれない。

    「いい、加減に、独りで、生きる」

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