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  • from: クマドンさん

    2020年01月29日 05時33分52秒

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    痛みを通さないと学ばない

    またまた、やってしまった二日間だ。
    仕方ないと諦める。
    とにかく、あの激烈なる痛みには怯えてしまったな。
    それで、ご迷惑を覚悟で、お休みをいただいた。
    欠勤となるために、無給となる。
    日雇い労働者は、大変なんだな。

    それでも、貴重な時間を得ることができた。
    あの個室もそうであったが、
    独りであることで、自分自身と本気で向き合えた。
    「いかに生きるか」
    「これからどうするか」は、
    歩きながら、走りながらではなかなか考えることは難しかった。

    日々の疲れの中ではなく、
    そうやって一日、本当に布団の中で、腹這いになって、
    本を読む。
    今、大事なことを語り、教えてくれるはずの本を選び、
    それを手に取り、とにかくぐんぐんと読み進める。

    私は、遺すべき大事な言葉には、赤いボールペンで波線を引く。
    それから、もう一度振り返って味わいたい言葉には☆印をつける。
    言葉は、言葉だけでなく、その瞬間、私の身体の一部と化する。
    この言葉を、私の生き方とする。
    そうした決意があることで、
    その言葉は、きっと私の魂に消火され、融けいるような気がする。

    言葉を読むと言うことは、
    ものの見方や感じ方を改めて学ぶと言うことだ。
    「そうか、そうだったんだ」の気付きが生まれる。
    私が日頃の生活で見過ごしていたものへの発見が生まれる。
    それは、そうですと教えられて、
    初めて私の出会っている現実の意味を理解させられる。
    そんな驚きや感動を味わえるのが、言葉との出会いだった。

    それから、本質との出会いだ。
    「初めに言葉があった」と、「仏心」とが、
    やっとやっと一つに想えた。
    そして、その「初め」とは、「不生不滅」であり、「本来の真面目」である。
    そのことが一致した。
    「本心」とは、「仏心」である。
    「阿頼耶識」とは、「初めに言葉ありき」のことだ。
    その言葉とは、ロゴスであり、神様の御心であり、仏心であった。
    そのことが、一つだと分かった。

    私は、その一つのままに生きる。
    何を迷うことは無い。
    ただそのものとして、あるがままに日々を生きる。
    その深い深い想いの顕れとしての己を生きるだけだ。

    そうした原点に回帰する。
    そのことこそ、尊いことだった。
    孤独であること。独りであること。
    その時だけだ、こうして言葉を通して神様が語りかけてくれるのは。

    だから、私の人生のターニングポイントには、
    こうして身体の痛みを通しての神様の介入が必ずあった。
    それは、死に病ではない。
    絶対的な激烈な痛みを伴い、私のことを打ちのめす圧倒的な力をもつ病ではある。
    しかし、それは、死なせるためのものではなく、生かすためのものだった。
    そのことを、いつも信じている。
    だから、復活を期して、休むことを己で選択する。

    退職後の講師としての立場である。
    確かに、同僚には多くの迷惑をかけてしまった。
    しかし、あの弱り切った身体で職場に立ってもね
    もしものことがあったら、もっともっと迷惑をかけてしまう。
    だから、私は、休む。
    その代わり、休んだ同僚の支援は惜しみなくする。

    私は、年末のあの時もそうだったが、
    いつもいつも突発的な身体の痛みを、
    ただの痛みとしてではなく、意味のあるものと感じて、それを受け入れる。
    あのみぞおちを締め付け、握りつぶされそうな痛みも、
    何だか意識とは別の身体のこととしてとらえ、見つめられた。
    不思議なことだが、それは、身体が生き延びるために行っている闘いなんだ。
    その痛みを痛みとして感じるのは、ここにセンサーである脳があるからだ。
    しかし、今、こうしてその痛みを見つめているのは、能ではない。
    それでは、いったいどんな私が、この痛みを見つめているのか。
    そして、身体にエールを送っているのかの「問い」だったな。

    私は、痛みを通してしか、自分自身の本心を発見できない愚かな人だ。
    だから、時々、こうして痛みを与えられ、道場とさせられる。
    この痛みは、大いなる「?」である。
    「どう生きるつもりなのか」「言え、言え」だった。
    その時、言葉に戻る。
    本当のことを書かれている本に戻る。
    そうか、「本」とは、「本当のことが書かれている」から「本」なんだな。

    こうして根源的な根本的な何かにリセットされる。
    「本」を熟読することで、「本心」を知る。体得する。
    痛みは、私の覚醒への道でもあった。
    だから、「痛み」を私は受け入れる。肯定する。
    そして、いつかは、その痛みの向こうの「死」もこれでいいと、そう思う。

    またまた学ばせられたな。

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