新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

新規登録(無料)

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

親父たちよ

親父たちよ>掲示板

公開 メンバー数:62人

チャットに入る

サークルに参加する

サークル内の発言を検索する

新しいトピックを立てる

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: クマドンさん

    2020年02月16日 08時19分36秒

    icon

    聲無き聲を聴く

    何だかねぇ。生きているだけで、ただ生きているだけで幸せなんだな。
    そうしたことを、よく実感する62歳だ。
    歳はとっているようだが、懲りない親父にはその自覚は少ない。
    傍から見たら、確かに62歳の親父であろう。
    10年前、私が62歳の叔父さんを見たら、
    やっぱり、「歳だなあ」と感じたはずだ。

    この60歳のボーダーラインを越えるまでは、
    このラインの向こう側は、老いと衰えと皺と加齢臭と思っていた。
    私たちとは、別の世界に住む酔っぱらいたち。
    しかし、自然にこのラインを超えてしまうと、
    その実感は、私には全くなかった。
    62歳であろうと、65歳であろうと、
    今日を、今を、ここを生きることには何の変わりもないのだから。

    昨日、「あき乃」のあの窓側の席だった。
    ここから、本町通りを歩く人たちのウォッチングがとても楽しい。
    ほんの数秒の出会いであるが、
    その人1人1人に人生を感じるからだ。

    小さなスーパーの袋に、1人分の食材の初老の女性。
    杖をついてゆっくりと歩いて行く。
    車椅子の60代後半だろうかこざっぱりとした服装の男性だ。
    車道を移動していたが、歩道に入ろうとすると溝で難儀していた。
    私は咄嗟に店の外に出たら、自力で歩道に入っていた。
    70代の女性の三人組。笑顔で何かを語り合いながら散歩している。
    みんな、その歳の、今日の、今、ここを生きている。

    「これからどうなるのだろう」と、不安になることもきっとあるだろう。
    独り暮らしのために、病気になったり身体が不自由になったらどうしようと、
    そう思って、眠れない夜を過ごすこともあるだろう。
    あの車椅子の男性は、天気が良い日は、ああやって移動しているのだろうなぁ。

    人は、人それぞれ、置かれた場所で、置かれた境遇で、今の歳の自分を生きる。
    それしかないんだと、そのお年寄りたちの姿を見るとそう思う。

    「阿頼耶識」について、学んでいる。
    この唯識の考え方は、何だか理に適って、しっくりと理解できる。
    無意識の世界である。
    しかし、無意識であるからこそ、この人生そのものを創り出す力をもつ世界である。
    私は、きっと無意識で生まれた。
    記憶は、どんなに遡っても、あのところで止まる。その先は、無い。
    胎児で居る時、そして、この世に誕生した時、私は、私だが、私になる前の私だ。

    「父母がまだ生まれていない時の私」
    それが、阿頼耶識の世界だ。
    その無意識の世界でありながら、生きている間にしたことは、種子となる。
    そのしたことや、思ったことも、種子として、蓄えられる。
    善きことには、善き種子が蓄えられ。
    悪しきことには、悪しき種子が蓄えられる。
    その蔵が、この無意識の阿頼耶識の世界だった。

    どうあろうとも、既に、私には、父や母が生まれる前に、
    きっと私としてのさまざまな種子が蓄えられ、備えられている。
    それが、芽を出し、この世に現れる。
    その現われが末那識の私なんだと言う。
    「我欲」「我執」「妄想」様々な自我の欲が生まれ、騒ぎ出す時、
    その欲によって種子がまた新たに生まれ、蓄えられる。

    私は、いつか必ず、死ぬ。
    しかし、この阿頼耶識は、消えない、死なない、そのままで留まる。
    また、きっと無意識の世界に戻る。
    阿頼耶識そのものとして、そこに在り続ける。
    そして、いつか、また、縁あって、私が命を授かり、私が生まれる。

    よくは分からないが、そういう意味らしいとは、ちょっとは分かった。

    頭で考えていることは、まさに氷山の一角だ。
    その下には膨大な氷の塊だ。
    その部分の存在について、私たちは気にもかけない。知らなくても生きられる。
    しかし、知らないと、存在するとでは、大きな違いなんだ。
    人は、知らなくても、その無意識の阿頼耶識は存在している。
    その切り替えをすると、生き方が、全く変わる。

    見えるものは、見えない世界と接している。
    聴こえる声は、聴こえない声の顕れである。
    考えられるものは、考えられない世界からの呼びかけでもある。
    つまり、無いものは在るのだ。
    つまり、無心の心。
    そこを生きることが、信ずることであり、深く生きることである。

    ただ生きる。
    今、ここを生きる。
    今、ここを楽しんで生きる。
    幸せだなぁと、感じたまま、笑顔で生きる。

    62歳の生き方は、それだった。
    ただ生きている。それで充分幸せだよ。

    そう言える生き方を、生きている人は、
    きっとこの阿頼耶識の呼びかけを聴いている人だ。

    「聴無聲」秋仙道人の書が、「あき乃」の入口に飾ってある。
    山小屋の森田さんは、「無聲呼人」という光道先生の書を飾っていた。
    同じだなぁの、感動だった。

    聲無き聲を聴く。
    その聲は、阿頼耶識からの呼び声でもある。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

コメント: 全0件