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  • from: クマドンさん

    2020年02月20日 05時28分25秒

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    小さな証 神様に導かれるとは

    昨日、教会での学びだった。
    「神様の導きを感ずる」と言うテーマだった。
    私は、前日、私の師であるS先生にお会いした。
    もう80歳をゆうに超えた御年だった。
    私は、先生と出会わなかったら、クリスチャンになっていたかどうか、
    本当に分からない。

    それほど私と言う人間は、我がままで、我執が強い人だったからだ。
    そんな私の希望は、若い頃、いつも砕かれた。
    それはそうだ。
    きっと私が望むことが、碌なことではなかったからだ。
    大学を卒業ぎりぎりの成績で卒業した。
    しかし、就職はできなかった。

    それで臨時の小学校の教師となった。
    それからが、長い長い苦節の道程だった。
    もし、私が順風満帆の人生であったら、
    きっと今の私ではないと思う。
    我がままで、人一倍我執の強い私は、
    「俺が、俺が」の嫌な男になっていたのかも知れない。

    しかし、私の人生は、これでもかこれでもかの試練ばかりだった。
    本当に森の中を迷っていたような、
    長い長いトンネルをとぼとぼと歩いていたような、
    とにかく、先の見えない、全く不安定で、心もとない人生だった。

    失敗の連続。
    挫折の連続。
    思い通りに行ったことは少なく、
    どうして私なんですか・・・の連続、連続。

    その時、大学卒業記念にいただいた聖書を読んだ。
    「シーザース・クライスト・スーパースター」は劇団四季だった。
    「メサイヤ」合唱団に入団して、歌を歌った。
    みんな、神様からの招きだった。

    そして、白山裏の花屋の裏の、十字架だった。
    私は、惹きこまれるようにして教会の玄関に立っていた。
    新潟福音教会だった。
    何もこの教会には繋がりは無かった。
    どういうわけか、この教会を私は選んでいた。

    そして、そんな私の前にラフな格好のまま、顕れたのがS先生だった。
    その時、私は、この人が牧師さんであるはずはないと思った。
    しかし、S先生だった。
    先生は、私の思っていたクリスチャン像を全く覆してくれた。
    真面目で、敬虔なだけの牧師だったら、
    きっと私は、ろくに話も聴かないで去っていたと思う。

    今から思えば、恥ずかしくなるほど幼稚な男だった。
    何も世間のことを知らず、本で読んだ知識だけが、頼りの愚かな男だ。
    そんな男の生意気な話を、先生は黙って聴いていてくれた。
    そのことが、とてもとてもありがたかった。
    何だか、自分には居場所が無く、社会から疎外されたまま、
    そこで生かされているだけとその無力感に、孤独感にさいなまれていたからだ。
    そして、夕拝を守るようになった。
    そこで聴く、神様の話は、真実だった。

    この世の中で、こんなにも「いかに生きるべきか」の話をしてくれる場所は、
    私には、教会の他には無かったからだ。
    どんなに混沌として、どんなに悩み苦しんでいたか。
    その闇の中で、その孤独の中で、その絶望の中で、
    私は、その御言葉一つ一つが、そんな私のために語られているのだと感じた。
    聖書は、まさに弱く、愚かで、罪深い人間の物語だった。

    私は、「ヨブ記」に出会った。
    そして、本気になってこのヨブの物語に読み浸った。
    没入した。
    ヨブの信仰を、私はどうしても知りたかった。
    ここまで悲惨な運命を神様から追わされながら、
    尚更、その信仰を深めていくヨブを、私は畏敬した。
    神様を信ずるとは、どういうことなのか。
    この今、ここで、私が負っている苦難をから逃れることができるのか。

    その時、イエス様の言葉が次々に胸に響いた。
    「苦しみのある人は私のところに来なさい。私はその苦しみを降ろしてあげよう。」
    そう言ってくれる人に、私は、会ったことがなかったからだ。
    苦しみ、悲しみ、痛み、孤独、絶望、挫折、それは、在るものだ。
    ヨブを見なさい。
    あなたがヨブだったら、生きられますか。
    全てを奪われても、神様への信仰を全うできますか。
    ヨブは、そう生きましたよ。

    うーーーんと、私は唸った。負けたなと感じた。私ではない。私は無力なんだ。
    その時、S先生が、次の歳の春に東京の神学校の校長として赴任することが決まった。
    「今しかない」
    私は、S先生の誘いと、同じく教師としての尊敬する先輩Kさんが、
    同じクリスマスの日に洗礼を受けることを知った。
    そんなこんなの状況の中で、洗礼をうける決断はごくごく自然だったと思う。
    28歳のクリスマスの日。
    私は、新潟福音教会で、S先生によって洗礼を授けられた。

    そして、今は、山の下福音教会の信徒の1人となっている。
    しかし、私は、30年以上も教会を離れて暮らした。
    まさにあの放蕩息子のような生活を送っていたものだった。
    そんな私は、S先生やKさんの祈りによって、導かれた。

    「神様による導きを感じていますか」の問いかけをもらい、
    ふと、これまでの人生が走馬灯のようにして蘇った。
    「ああ、これを導きと言わないで、何を導きと言うのだろうか。」
    私のこれまでの人生そのものが、神様の御計画そのものだった。
    そう悟ったら、何だか全てのことが安心だった。

    これからも、きっと神様に導かれて生きていけるからだ。

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