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  • from: クマドンさん

    2020年02月27日 05時35分38秒

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    「かさこじぞう」の物語

    「かさこじぞう」を子どもたちが上演する。
    それは2年生の国語の教科書にある物語だ。
    このお話、なかなか学ぶことが多い。
    今回の上演で、私が再発見したことをここに記す。

    おじいさんとおばあさんは、貧しいということだ。
    大晦日なのに、餅を買うお金がない。
    それでも、悲嘆しない。
    心配しない。
    何とかなるさと、ばあさんがすげがさを作ることを提案する。
    おじいさんは「それは名案」と、直ぐに従う。
    ふたりはせっせと菅笠を編んだ。

    「まぁ、なんとかなるさ」「仏様がきっと助けてくんなさる」
    その身に着いた信心が、ふたりを助ける。
    そんな気がする。
    状況は確かに悲惨かもしれない。
    けれど、きっとどこから助け手が来てくんなさる。
    信心とは、そういうことだ。

    菅笠を大晦日の市に売りに行く。
    まぁ、世間とはそんなものだ。
    「傘はいらんか。傘はいらんか。」と、じいさまは声をはって売るが、
    いっこうに声はかからず、
    その賑やかな人混みの中で、きっと孤独を感じたことと思う。
    売れない傘を担いで、とぼとぼと雪道を山の家に向かって歩くじいさま。
    思い通りにはいかない。
    期待したが、人には裏切られる。
    それかきっと世間なんだの諦めか・・・。

    そこに地蔵様が6人雪に埋もれて立っていた。
    さて、そこでだ。
    私ならどうするか。
    その傘を、地蔵様に被せるか、
    それともせっかく作った傘だから、家にもって帰るのかだった。
    じいさまは、「可哀想に・・・」と、地蔵様に被せることを選んだ。
    神仏に対するこの敬愛が、信心なんだと、つくづく感じた。

    そこには、地蔵様に対する深い信仰と、敬愛と共感だった。
    それが、私にはあるのかの問いだった。
    まぁ、私はクリスチャンであるから、地蔵様は、地蔵様だが、
    しかし、きっと見て見ぬふりはできないとは思う。
    雪に埋もれた地蔵様の頭の雪を払うことはしなくとも、
    「大変ですね」「寒くないですか」と、声をかける。
    きっとその前を通る人たちは、そうするのではないだろうか。

    じいさまは、違っていた。
    売り物の傘を被せた。5つの菅笠を一つ一つ地蔵様に被せた。
    その時の光景が目に浮かぶ。
    冷たくかじかむその手で、頭の雪を払い、傘を被せ、紐を顎で結ぶ。
    きっと指先はきんきんにかじかみ、痛んでいたはず。
    しかし、傘が一つ足りない。
    どうしようかと暫くの思案だ。
    そして、自分が被っていた傘を、最後の地蔵様に被せた。

    ということは、これからの山道を、
    傘も被らず、雪に吹かれて登ることになる。
    しかし、傘を被った地蔵様を改めて見て、
    「これでええ。これでええ」と、じいさまは思ったことだろう。
    身体は寒さで凍えそうだが、心はほかほかと温かい。

    それと同じ気持ちになったのがばあさまだった。
    傘を地蔵様に被せた話を聴いたばあさまは、
    「それは、それは、よいことをしなすった」と、じいさまを褒めて、労った。
    このばあさまの魂が、美しいと私は思う。
    この物語には、せちがらいあの大晦日の市の人々のような欲は無い。
    人から儲けようとか、自分だけ得をしようとか言う魂胆は、
    このふたりには微塵も存在していない。
    それが、稀有な物語を生んでいる。

    ふたりは、とことん腹を減らし、餅つきの真似をして、
    それからひもじさを忘れるために、布団の中に入って、大晦日を迎えた。
    しかし、やっぱり善いことをしたふたりは、
    心がほかほかと温かかったと私は思う。
    「人は、パンのみで生きるにあらず・・・」だな。

    そこへ、遠くから、歌のような大勢の人の声が聴こえる。
    「地蔵に傘を被せた、じいさまの家は、どこだ。ばあさまの家は、どこだ」と。
    まるで夢なのかと、その声をふたりで布団の中で聴いていると、
    不思議なことに、その声はずんずんとふたりの家に近づいてきて、止まった。
    そして、「ずさん、ずさん」と、重い荷物を次々に降ろす音が響く。
    その後、その声は、風に紛れて、また遠ざかって行った。

    ふたりが慌てて外に出ると、雪の峠に向かって6人の地蔵様の姿が見えた。
    空のソリを引きながら、地蔵様たちは歌を歌いながら帰って行った。
    ふたりの足元には、正月のご馳走と、宝がぎっしりと積まれていたとさ。

    さてさて、この話を聴いた幼稚園や小学校低学年の子どもたちは、
    どんなことを考えることだろう。

    とにかく、昔の人たちは、困っている人がいたら、助けることを当たり前とした。
    その困っている人を、見過ごしにしなかった。
    お互い様だと言う言葉は、もう存在していないのだろうか。
    じいさまの傘を被せた行為の尊さだ。
    そのことを、自分たちもきっと貧しかった親たちは、
    子どもたちにこの物語を語りながら、教えたのではないだろうか。

    困っている人がいたら、助けてあげよう。
    そうすれば、きっと自分が困っている時、助けてくれる人が現われるよ。
    貧しさには、やっぱり相互扶助の精神だ。
    何だか、深い深い物語だった。

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