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  • from: クマドンさん

    2020年04月27日 07時01分18秒

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    「街の灯」であれ。「街の灯」になれ。

    チャプリンの「街の灯」を観た。
    BSのNHKでは、よくチャプリンの映画を放映してくれる。
    このご時世だからこそ、チャプリンなのではないかと私は思った。

    彼は、放浪者・失業者・貧しいその日暮らしの人だ。
    ある意味「社会の弱者」として登場する。
    その彼が盲目の美しい女性に恋をする。
    花を街角で打っている貧しい人だ。
    彼は、彼女から自分が持っているたった一つの硬貨で、一つの花を買う。
    彼女は、その時、彼をお金持ちだと想像してしまう。

    彼は、そのお金持ちの自殺を助け、ひょんなことからその人の友となった。
    金持ちは、酔っぱらうと人格が変わり、彼を友と思い込む。
    とにかく、あっちこっちに連れまわし、贅沢な生活を彼と共にする。
    しかし、酔いが覚めると、彼のことをすっかり忘れて、追い出してしまう。
    そんなことが、何回も繰り返される。

    彼は、この祖母と二人、貧しい暮らしをしている女性を助けたいと仕事を始める。
    放浪生活を行っていた自由気ままな彼は、愛する人を助けるために仕事をする。
    そんな時、彼女が家賃を払えずにこの部屋を追い出されることを知る。
    その22ドルを稼ぐために、彼は、ボクシングで八百長試合を引き受ける。
    ところが、あることから対戦相手が変わり、本気で闘わねばならなくなった。
    命懸けで、彼は、その賞金を稼ごうとする。

    しかし、負けた。
    彼は失意のまたあの金持ちの酔っぱらいと出会う。
    彼は、金持ちに彼女への支援をお願いする。
    彼は、千ドルもの大金を紙幣で彼に気前よく渡す。
    ところが、ある顛末で彼が強盗犯に間違われてしまう。
    彼は必死に警察官から逃れて、彼女の部屋に行き、そのお金を彼女に渡す。
    家賃の他に残ったお金で、目の手術をすることを約束する。
    そして、彼は、強盗犯人として街の中で刑事たちに逮捕される。

    数カ月の後、彼は釈放される。
    街でまた新聞売りの少年たちに虐められる。
    そんな彼が、あの彼女と再会をした。
    それはとても素敵な花屋のウインド越しだった。
    彼女をはにかみながら見つめるぼろぼろの放浪者だ。
    彼女は、彼を見て、ゲラゲラと笑う。
    それでも、彼は、じっと彼女のことを見つめ続ける。

    なかなか立ち去らない彼を見て、彼女は立ち上がって外に出る。
    一輪の花と硬貨を一枚、彼に手渡す。
    そして、彼の手に触れる。彼女は、気付く。この手が、彼だと。

    弱者はどうして排除されるかという話を「絶望名言」で聴いた。
    安倍公房さんの言葉を通しての語りだった。
    弱者は個である弱者もある。
    ところが、兎が集団となったら、
    ライオンが弱者となるのではないかということだ。
    「弱者への愛には、いつだって殺意が込められている」そうだ。
    放浪者である彼をいじめたのは、新聞売りの貧しい少年だ。
    貧しさの中でも、もっと貧しさにある人や、障害のある人は、差別される。
    不思議なことだが、兎の集団の「正義」が、弱者を死にまで追い込んでしまう。

    多数派に自らなることで、マイノリティーを排除しようとする。
    多数派にはならず、なりたくない個は、生きずらさをそうした社会では感ずる。
    そして、社会は適応しようとしないその個に対して苛立ちを感ずる。
    しかし、本当は、この生きずらさを感じているマイノリティーが、
    社会を変革・改革する力をもっているのに、
    大衆は、変革・改革を望まず、そのままの見かけで安定した生活を望む。
    だから、政府の言うことに従う。生活するためのお金が欲しいからだ。
    従順であることの多数派だ。

    「ふと未来が今までのように単なる青写真でなくなる」
    ある日、目覚めたら、世界がすっかり変わっていた。
    世界が、決して望んでいるものでもなく、受け入れ難いものと変わる。
    どうしてこんなことになったのか、誰も分からない。
    日常が突然断絶され、全く違った世界に自分が置かれてしまったとしたら。
    それは、「変身」のザムザでもあるな。
    世界は、連続ではなく、不条理な断絶だったの気付きだ。

    チャプリンの彼は、自分から望んで失業者になったのでないかも知れない。
    または、彼は、自分の幸福論によって放浪の道を歩んでいるのかも知れない。
    しかし、突然、世界は一変させられてしまうのだ。
    彼は、そんな大衆の独りでしかない。
    しかし、大衆はそんな彼を自分たちの世界から排除する。
    蟻たちに排除されたコオロギのようだ。

    「失明宣言を受けた人の目で街を描写する」
    正岡子規が日常のその自分が寝ている座敷の様子を感動して歌にしていた。
    そのことが不思議だったと萩原朔太郎が想っていた。
    ところが、自分も病で何カ月も病床にあったとき、
    自分も部屋に在るものや庭に咲く花や、虫や鳥に対して、
    何とも言えぬ味わいを感じ、どこを向いても素晴らしい風景に感じ、
    世の中に在る全てのものが美しく、愛おしく感じられたと言っていたそうだった。

    ずっとここに籠って、違う目で自分の身近なものを見つめる。
    今までとは、違った目で見つめる。
    改めて、そのものをそのものとして見つめる。
    そして、そのものを自分だとして、我々なんだと想って見つめる。
    病気で床に長い月日を伏せる。
    チャプリンの彼は、仕事を無くし、住むところも、金も無く、
    放浪の生活をしてやっと分かったことがあったはずだ。

    人生の幸せは、お金ではない。
    彼には、ただ、無私なる愛そのものしか存在しいなかった。
    彼は、ただ自分を捨てる。それが、それのみが彼の喜び。
    彼女は、目が見えなかったから、彼の姿に惑わされなかった。
    彼の本質は、優しさだ。
    その優しさを、盲目だからこそ、感じられた。確信をした。

    もし、彼女が貧しくも無く、盲目でもなかったら、
    この愛の人である彼と出会えただろうかの「問い」だった。
    「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」とイエスは教えた。
    彼は、そうしなければならないから、そうしているのではなく、
    ただそうしたいから、どんな犠牲を払っても、そうしているだけだ。

    試験の中で、人は、きっと生まれ変わることができるのだろう。
    しかし、その試練を自らの受け入れ、そこで学ぼうとするならば。
    試練を、魂の学校・道場として、そこで自分自身と向き合うのならば。
    きっと人を、見かけだけの幸せから、
    本当の確信をもった幸せに変えて行ってくれるのだと、私は信じている。
    今、日本中・世界中の人たちが、正岡子規と同じ病床の生活だ。
    そこで何を見て、何を感ずるか。

    さてさて、最後は「読書」についての言葉だったる
    「読まなかったら、こういう世界を決してもてなかったからね。」
    「決まった尺度だけで物が見えるって、怖いことではないか。」

    つまり、今は、この時なのではないだろうか。
    この不条理な状況に突然置かれてしまった私は、
    断絶を感じ、これからどうなって行くのかの予測も立てられない。
    その時、私は、視点を変えて、もう一度この世界を見直すべきではないのか。
    本当はここに全てが在り、全てを与えられていたのに、
    私は、それを外に求め、人に求め、金に求め、物に求めた。
    しかし、それらを断たれた今、私は、どうやって生きるべきなのか。
    それは、子規に与えられた「問い」でもあるはず。

    それは、放浪者である彼にも与えられた「問い」であるはずだ。
    そして、それは、アウシュビッツに置かれたフランクルの「問い」でもあった。
    本来、全ての人たちは非常事態宣言の中で生かされていただけなんだ。
    ただ、そのことに気付かず、いや、気付かないように目を背けて来ただけなんだ。
    これが、人間の置かれていた本来の、あるがままの現実だとしたら、
    私たち独り独りはどうやって生き延びればよいのかの「問い」だ。

    あの金持ちのようにほんの僅かの人たちが、社会の富を有すべきなのか。
    それとも、彼のように貧しくとも「隣人愛」で生きるべきなのか。

    「絶望名言」の語り手である柏木さんは、20歳から13年間難病で寝たきりだった。
    その病から奇跡的に回復を遂げても、今でも免疫が低下し、
    このコロナに感染したら、命すらどうなるか分からない身体の状態だそうだ。
    そして、彼が入院している6人部屋の患者さん全てが、
    ドストエフスキーを夢中で読むようになったそうだ。
    こんな試練に合う時は、重い文学が心に響くものなんだそうだ。

    本を読むということは、眼鏡を変えるということだと言う。
    裸眼で一つの見方だけで生きていた私は、
    その眼鏡を変えて、クリアに観ることで、現実がくっきりと見え、
    常識や価値観が変わるということだと柏木さんは語った。

    何かに縛られていた私が、その縛られていたものから解放される。
    ものの見方を変えると言うことは、そういうことなのではないだろうか。

    街に灯り(愛)があるから、人は生きられる。
    「街の灯」とは、きっとそういう映画だったのだと、改めて感じた。

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