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from: クマドンさん
2020/05/12 08:50:19
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ヨガの気付きとは何か
三日連続でヨガのレッスンを受けた。
これもコロナのおかげさまだ。
本来ならば、1カ月に4回のレッスンだった。
ところが、このstayhomeのおかげで、
スタジオでのレッスンはお休みとなった。
そのために、ZOOMでのネット配信でのレッスンとなった。
丁度、私は無色透明な存在となってここで生活している。
暇だ。いや、トライしようと思えば、いつでも参加できる状況だった。
もし、仕事をしていたら、平日の16時からの参加は、絶対無理だからだ。
だから、マスターには申し訳ないが、
夜の回を除いて(酔っぱらって、眠っている)<
週4回の参加だった。
そして、こうやって回を重ねることで、
一時期に集中して行うことで、
とてもとても深い気付きが多く感じられたのはありがたかった。
「ヨガは、思い込み」だそうだ。
その思いとは、自分自身の身体に対するものだった。
身体と共に62年間生きている。
その間、数多の試練をこの身体は経ることとなってきた。
本当にこの身体のおかけで、今、私は、ここに生きている。
そんな身体のことを、
こんなにじっくりと向き合って、
考えたことは少なかったのではないだろうか。
薬指をストレッチだった。
この指は、背中の筋肉と直接つながっている指だそうだ。
「何で、そうなのか」と、その時、疑問が湧いて来た。
「薬という名の指は、この指だけだな」と。
そう言えば、親と子が居て、人も居る。真ん中だから「中」なんだろう。
しかし、どうして子どもの隣に「薬」があるのか・・・・。
これは62年間での初めての気付きだった。
次に、肋骨だ。
この肋骨のおかけで肺を使って呼吸ができる。
そして、この下の横隔膜の上下によって、
酸素と二酸化炭素が出たり入ったりを繰り返している。
横隔膜の動きも面白い。
息を吸う時、この膜が下に下がる。
お腹が膨らむから、お腹で息をしているのではないのだ。
しかし、こうやって深く呼吸していると、
普段はあまり動かないこの内臓を動かし、活性化させる作用があるそうだ。
そして、この肋骨の間隔は、意識して伸ばすと、広がるのだった。
両足のストレッチをする。
膝の下。腿の下の筋肉が固く、なかなかすっきりと伸ばせない。
私は、2年間このヨガのレッスンを受けている。
最近、自分でも感ずることは、
このがちがちだった筋肉が、少しだけ柔軟になったことだった。
可動範囲が広がるというのか、伸びる痛みが変化してきた。
それは、身体のあちらこちらの筋肉にも言えることだった。
伸ばすと、伸びる。延ばすと、延びる。
身体は意識して動かすことで、着実に変化・成長を遂げていた。
腹筋と体幹の筋肉もそうだった。
それほどハードな負荷をかけているわけではないのだが、
持続してじわっと負荷をかけ続けることで、
筋肉の固さが変わった。
本当に、がちがちになってきた。
まだ皮下脂肪がたっぷりと覆っているので、
その効果は目には見えないが、触ると感じる。
固く、しっかりと、がちがちになった。
つまり、筋肉は決して裏切らないの実証だった。
私は、ヨガをやりながら、気持ちよくなっていく自分を感じている。
確かに、生活の中ではいろいろと悩んだり、心配したり、考えたりと、
そんな想いや妄想にとらわれて暗い気持ちになることもある。
そんな時は、ヨガがお勧めだった。
まず、いつもの動きをいつもの順番でやり始める。
初めは、まだその妄想の片鱗が残っていても、
腕を動かし、身体を捻り、足を延ばしている内に、
私は、私の身体のことだけを感じるようになっていく。
これは、とても不思議な感覚だ。
身体の反応や痛みや変化に集中していると、
さっきまで考えていたことが、全部消えてなくなっているのだった。
その内に、身体のことだけを考えるようになり、
呼吸を整えて、ポーズを変化させていくうちに、
時間の経つことすらすっかりと忘れていることもある。
「無心」になるためには、何かに「集中」することだった。
じっとして悩んでいるから、その悩みには出口はなくなる。
考えれば考えるほど、どんどんその悩みは重くなる。
そんな時は、すぐに身体を使うことだ。
その場で、直ぐに、ヨガをやる。
ヨガには、「繋がる」という意味もあるらしい。
では、一体、何と私は繋がっているのかの「問い」だった。
不思議なんだが、全ての問いの答えは、
この身体に在るのではないかと、最近、よく考えている。
答えを外に、他の人に求めるから、もっと虚しくなってしまう。
求められない者に対して、求められると勘違いして、
そうやって求めて、裏切られて、拒否されて、寂しさが益々募る。
しかし、本当は、そうではないのかの気付きだ。
「答え」は、この身体には既にあるのだ。
だから、「問い」が自ら発せられる。
「問い」のあるものには、絶対に「答え」は存在しする。
問題は、この事実を心から信じられるか否だ。
そして、この身体にはその「答え」があることを信ずることだ。
頭で考え、空想し、妄想したことで、人は自分を苦しめる。
悩みなんかここにはないものだ。
今、ここで、どうしょうもない他人事だから、悩むのだ。
だから、考えたって、悩んだって、どうにもならぬことは、考えないことだ。
「妄想」しない。勝手に悩まない。
しかし、そういった妄想に陥りやすいのも、私たちの常でもあった。
そんな時だ。
身体を動かすことなんだな。
庭で草取りをする。樹木の剪定をする。刈った草を袋に詰める。
味噌汁を造る。サラダを造る。魚を焼く。パスタを茹でる。
ヨガをする。ウォーキングに出かける。等々、
stayhomeのこの状況を少しでも豊かに充実した時間を過ごすためには、
やはり、考え、悩む前に、身体を動かす。身体を使うことだった。
ヨガの素晴らしいところは、そこだと私は想っている。
ヨガがどれでけ私の心を癒し、救ってくれたかと感謝している。
ヨガは、確かにこのように私の身体を変化させ、成長させてくれた。
この腹筋と太腿の筋肉の太さは、ヨガで鍛えられたおかげさまだ。
確かに、健康な身体になってきている。
それは、内臓にもよい影響を与え、呼吸を意識的に行っているからだ。
身体の柔軟性が増し、少しのことでは疲れない体力もついている。
こうした身体の変化成長とシンクロして、
確かに心と精神の変化と成長をも感じている。
もののとらえ方や感じ方が変わった。
それは、何だか私と言うわたしの原点にリセットできた感じがするからだ。
ここに生きる私にはわたしが生きている。
そのわたしは、このわたしを包む全てと等しいわたしのことだ。
そのわたしのことを、人は、毎日の生活の中で見失う。
いや、そうしたわたしという存在がこの自分であることすら知らない。
本当は、わたしで生きているのに、
わたしのことを忘れ、感ぜず、私だけを生きている。
だから、すっきりとしない。悩む。苦しむ。孤独を感ずる。寂しくなる。
でも、そうであったとしても、このわたしはずっとこの身体には、在る。
そのわたしのまま、そのわたしで生きることが、
幸せなんだ。
だから、そのわたしと出会う、わたしにに気付くことを求められる。
「問い」とは、だから、そのわたしからの語りかけなんだ。
わたしは、いつでもわたしであり、私に問い続けている。
その「問い」は、わたしへの導きであり、道程でもあった。
その「問い」の「答え」は、だからこの身体に存在している。
生まれてから一度も、一瞬たりとも、わたしは居なくなったことはない。
わたしは、一つとしてのわたしとして、ここに居る。
ヨガで、深く深くで繋がるのは、このわたしなんだ。
昨日、あることで少し悩み、心が痛んだ。
そして、なかなかその悩み・妄想がきえてくれない。
私は、ヨガを始めた。
そしたら、すっかりと私を忘れた。
気持ちよくなり、心が落ち着き、穏やかになった。
庭の花たちをみたら、わたしだった。
「ああ、わたしだなぁ」と、黙ってその花たちを眺めていたる
「独りではないなあ」と、ふと感じた。
連続して、集中レッスンを受けている。
こうして身体の気付き、心の気付きを言語化する。
するともっとわたしに近づくような気がする。
ヨガマスターを心からリスペクトしている。
そして、やはり、ラブとリスペクトとは、一体なのだと、改めて思った。
そうした想いで、わたしはここに存在している。-
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