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  • from: クマドンさん

    2020年06月14日 07時44分12秒

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    一体を生きる。生かされる。

    昨日は、本当に疲れていたのかもしれないなぁ。
    先週の水曜日から始まった学童保育の保父さんのお仕事せいなのか。
    それとも、日頃の飲み過ぎだたたったのか。
    それとも、自転車での通勤のせいなのか。
    とにかく、こんな日は、ぐったーーーとしていることが何よりだった。

    あくせくしなくなったことを喜んでいる。
    座敷に横になってうとうとしているなんぞ、
    これまでは罪悪のように感じていたものだった。
    「もったいなぃ。寝てしまったよ・・・・。」と、
    失ってしまった時間を惜しんで悔しがっていたものだ。

    しかし、今は、身体とともに素直に生きている。
    だから、身体の声を天の声として聴く。
    その声に従う。
    だから、休むときは休み。何もしない時は何もしない。
    そうやって何もしないことで、時間が流れる。
    しかし、そのことがかえって、自然体なような気がする。

    人間がまず感ずることは「情動」だそうだ。
    何かの刺激を察知すると、ぱっと身体が反射する。
    ぱっと手が動く。かっと身体が熱くなる。じわっと涙が溢れる。
    それは、そうしようと思って、そうしようと考えてしたことではない。
    ちゃんと、無意識のうちにその刺激に対して身体自体が反射する。反応する。
    それが、瞬時に行われる。

    その次に顕れるのが「感情」だそうだ。
    そこで、「喜び」「怒り」「痛み」「優しさ」「温かさ」等を感ずる。
    「ああ、今、私は、深く深くで感動しているだなぁ」と、
    音楽を聴いて涙を流している自分自身を見つめる。感ずる。
    この時、感じている身体の私がいて、
    その感じていると意識する私がいる。

    ところが、こちら側に来る前は、
    あちら側では、考えることが先だった。
    つまり、考える。そして、課題を解決するための答えを探し求める。
    この考える私在りきの私だった気がする。
    その時、身体である私のことをすっかりと忘れていた。
    いや、気付くことも無く突っ走っていた気がする。

    ところが、内視鏡手術失敗から、私の人生は一転させられた。
    これは神のはたらきであったと、後から知った。
    とにかく今夜が山場、手遅れならば明日の朝は来ないでしょう。
    突然救急車に乗って、N大学病院に運ばれた。
    すぐに医師たちはカンファレンスをし、その横に寝かされた私に、
    「クマさん、切りますね。このままだとどんどん数値が悪くにります。」と、
    主治医となるS先生に言われた。
    初めて会ったその瞬間に「切りますね」だった。
    「誰のことですか・・・」と、口から出そうだった。

    目が覚めたICUの暗がりで、身体で動く部分は目玉だけだった。
    その瞬間だ。
    私にこの身体が戻って来たのは。
    身体が全く動かない。
    それから、麻酔が覚めてからの止まない激痛の連続。連続。
    その時も、「ああ、身体が悲鳴を上げている」との自覚だった。

    痛み止めが切れると、声も出せない腹の痛みだった。
    「うううううう」と呻いて、身体を九の字に曲げてベッドで耐えた。
    その時だ。「ああ、身体は、生きるために闘っている」の実感だった。
    死ぬと言うことは、身体がこの闘いに敗れ、蘇生しないと言うことだった。
    つまり、私が生きているのではなく、
    本当は、この身体が生きていたのだ。
    そして、この身体が、身体として生きていてくれたおかげで、
    私が、居たのだという発見と驚き。

    そして、その身体の回復は、生物としての回復であり、蘇生であった。
    衰え、弱り、力尽きた時、私の身体は衰弱して死に向かう。
    幸い、私の身体には癌細胞は存在していなかった。
    だから、この胆汁で侵された内臓の機能不全から回復され、
    このみぞおちからへそまで真一文字に縫い合わされた傷が癒され、
    失われて行った筋肉の力がまた少しずつ蘇ることが、
    私の生きる唯一の道だった。

    つまり、私の考え何か、余計なことだった。
    考えれば、考えるだけ、辛くなる。
    そんなことをいくら考えても、
    この身体の蘇生の進度が変わるわけはない。
    悩めば悩むほど良くなるのであれば、
    いくらでも悩んだ。考えた。
    しかし、今、ここで私が無力なのは、
    身体が身体として生物としてその命を全うするために、
    どのように本気で一つ一つの臓器が回復の努力を続けてくれるかという、
    何とも途方もない事実だった。

    「生きる者は、生きます。」
    「死ぬ者は、死にます。」
    「だから、生きるか死ぬかは、自分の身体に聴いてください」だった。
    そのことは、明確な事実だった。
    大部屋で私の隣のベッドのhさんは、まだ60代後半だった。
    しかし、彼の肝臓の癌は肥大してしまい、
    開腹したがインオペというやつで、即座に無理だとその腹を閉じられた。
    退院後、数カ月で亡くなった。

    身体とは、そういう存在だった。
    私の身体には、胆嚢が存在しない。
    この手術の時、摘出されたそうだ。
    それを、後から主治医に聴かされた。
    「それでも、大丈夫なんですか」
    私は、胆嚢が無い身体となってもここに生きていることが不思議でならなかった。
    つまり、身体の臓器とは、この身体を生かすために、
    それぞれが助け合い、補い合って生きていると言うことだった。
    確かに、胃を全摘しても人は生きる。
    それは、まさに驚異的な生きる力だ。

    私は、考える私のいかに無力であることがよく分かった。
    考えることは、お呪いではない。
    この身体が蘇生して回復することは、
    考えたからできるのではなく、
    この身体が本来生まれながらにもっている蘇生する力そのものの力によるのだ。
    そんな当たり前の事実に私は、この時、生まれて初めて気付くことができた。

    この身体が私なんだ。
    この身体が生物として終わることが、死だった。
    死とは、この身体が枯れること。衰えること。
    息をしなくなること。心臓が止まること。意識が止むこと。終息すること。
    私は、いつしかそのことに気付いてから、
    この日々生きるための闘いをしているこの身体に対して声援を送るようになった。
    そして、そうやって生きようとしてくれている身体の臓器一つ一つに感謝した。
    「胃さん、ありがとう。心臓さん、ありがとう。肺さん、ありがとう」と。

    そして、少しずつ立って歩けるようになったら、
    「足さん、ありがとう。手さん、ありがとう」と、感謝した。
    時には、足に語りかけた。
    「今日は、隣の病棟まで歩いてみるけど、大丈夫」と。
    そうやって引きずりながらも歩いてくれた足を摩りながら感謝した。
    ああ、今、その時を思い出した。
    涙が溢れて止まらない。
    やっぱり、身体は身体として存在している。
    この涙は、身体の涙。私の涙だ。

    それからだなぁ。
    身体と一緒に、共に生きるようになったのは。
    だから、私は、独りではない。
    身体がここに居てくれる。
    その身体はこうして涙で、時には気持ち善さで反応してくれる。
    だから、疲れているなら、身体には休んでもらう。
    これからも、もうしばらくは一緒にここで、生きて欲しいからだ。

    身体の声を聴く。
    そして、分かったことが在る。
    その身体の声・「言葉」は、この庭の花たちと同じ「言葉」だと。
    つまり、身体の「言葉」が感じられる人は、
    きっとこの花たちの「言葉」を感じられる人なんだ。

    生物体として、生きる。
    身体と共に、生きる。
    それが、本当の「一体」で生きることだ。

    身体と私が別れ別れで生きていた。
    しかし、あの死ぬ生きるが、私と身体とを一つにしてくれた。
    そして、stayhomeのおかげで、
    身体と花たちとは一つ。「一体」であることがよくよく分かった。
    身体である私も、この花たちの仲間の1人だ。

    つまり、本当は全てのものは「一体」なんだ。
    一体から生まれていないものは一つもこの世には存在していないはず。
    そして、この身体が身体として終息する時、
    私はその一体にただ還るだけだ。

    見える一体であり、見えない一体である。
    そのことを行ったり来たりが魂としての私なんだ。
    池田晶子さんが言っていた。
    「魂なんだと分かると、全てが分かる」と。
    それは、この「一体」の発見。
    この「一体」こそ、「宇宙」だった。

    身体と共に素直に生きると言うことは、
    一体のまま、今、ここを、生かされている気持ち善さなんだな。

    疲れたら、休む。
    眠たければ、眠る。
    腹が減ったら、ご飯を食べる。

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