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  • from: クマドンさん

    2020年06月18日 07時01分56秒

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    一冊の本に書かれてある言葉とは

    さてさて、子どもは大人に何を求めているのかの「問い」だ。
    それは、人は人に何を求めているのかの「問い」でもあった。

    保父さんになり、それも補助員としてのお手伝いの立場となった。
    担任教師にはそれはそれは大きな重圧と責任だが、
    ある意味では、子どもたちの中での私たちの立ち位置は、
    お父さんであり、お母さんだ。
    私のように62歳、白髪の男性はおじいさんと呼ばれても不思議はないか。
    そんな距離感と立場で、子どもたちの様子を日々見守っている。

    すると、いつもいつも心に浮かんで来るが、この問いだった。
    子どもたちはでもあるのだが、
    本当は1人ひとりの子の子は私に何を求めているかと考える。
    「子どもは、一冊の本である」という言葉が、腑に落ちる。
    私は、これまでこの言葉をきっと言葉としてとらえてきたようだ。
    今は、実感として、態度として、謙虚な気持ちで学んでいる言葉となった。

    言葉とは、意味があるものだ。
    しかし、その意味は、読み手の人生における経験や学びの深まりによって、
    時には、以前であった時とは、劇的に変化・飛躍することもある。
    今は、私は、真剣に一冊の本を熟読している。
    本当に、しっかりと繰り返し繰り返し、
    その真意を読み取ろうと努力している。

    それでは、私の姿はと言えば、ただ子どもの脇に座って笑っているだけ。
    子どもと会話しているだけ。ダジャレを言っているだけ。
    何ら教育的な行為はここでは行われていなかった。
    ところが、このことだけで、1人の男の子が劇的な成長を遂げた。
    それも、ほんの三日間、各2時間だけのかかわりだけだった。

    「クマさんが来てから、本当にAさんは変わりましたね」
    「それまでは、やっぱり私たちは叱ることが多かったんです」
    そう言ってくれた支援員さんは、40代の優しいお母さんの顔だった。
    いつもかかわっていた支援員さんたちだから、
    この成長に驚いている。
    しかし、それが、本来のAさんだったんだ。
    そうできなかったら、きっとそうはならなかったと私は思う。

    では、どうしてAさんは、落ち着いて、集中して、黙って本を読める、
    感心な彼に返信できたのか。
    それが、分かったら、
    きっと子どもたちからの大人への「問い」の答えが分かるのだと思う。

    私は、よく花や野菜を育てる時、
    その花や野菜そのものになっていろいろと考える。
    つまり、このカボチャは、居心地がよく、気持ちよく生きているかの「問い」だ。
    葉が大きくなり茂って来たので、余計な葉は取り去った。

    実を実とするために、めしべの先におしべをくっつけ受粉させる。
    密集状態になってきたので、つるを伸ばす方向を日当たりのよいところに修正する。
    すると、元気よく、すくすくと育つ。
    そしたら、次の日は、その効果があったか、しっかりと観察する。

    葉っぱの色や、形で、その樹木の健康状態がよくわかる。
    葉っぱの端っこが枯れて来た。
    何だか元気が無く、萎れていたりする。
    それは、水の催促だった。
    しかし、あまり過剰にやっては根が弱い樹となってしまう。
    だから、適当な頃合いと、加減を工夫する。

    それでも、私が移植した2本の樹木が枯れてしまった。
    しかし、私は、諦めていない。
    根っこが絶対に育っていることを信じているからだ。
    植物は、見えないところがとても大事、大事だ。

    気温が上がり、暑さが続くと、途端にビオラやナデシコが元気を失う。
    次々とあんなに美しい花を咲かせていたのに、
    枯れてかさかさのがくだけが残される。
    そりは、「終わりました」「お願いします」のサインでもあった。
    私は、剪定ばさみで、ばすばすと枝の途中で切って行く。
    まだ花が残っているものも、「ごめんな」と言って切って行く。

    するとだ、今はただ緑色のくきだけが乱立しているが、
    その内に茎の葉の横から、小さな小さな花芽を出してくる。
    私は、再生する力を信じている。
    だから、切れる。
    信じていない人には、きっと切れない。

    それから、終わった花でも、その根っこだけでも残すことがある。
    プランタを開けるために、まだ生きそうな根っこだけは花壇には移植する。
    するとすると不思議なことが起きるのだ。
    もう枯れて駄目だと思われていたその植物から、
    その茎の根元や、茎の途中から、小さな小さな葉の芽が現われる。
    つまり、この根っこだけのナデシコも、
    目には見えない力で、精一杯生きていたということだった。

    実は、星の王子様ではないが、
    「大切なことは、目には見えない」んだな。
    だから、目に見えることだけで、分かったと言ったら、勿体ないんだ。
    本当のことは、大事なことは、目には見えないものだからだ。
    そのことをしっかりと感じとり、
    その声無き声を聴き採り、
    それを「言葉」に翻訳して、了解し、理解する。
    すると、そうされた花や樹は、本当に喜んでぐんぐん伸びる。

    つまり、伸びる力・成長する力・ぐんぐんと大きくなる力は備わっている。
    また、伸びようとする気持ち・大きくなろうと言う気持ち、
    そして、優しくなろうという気持ち、誰かのためになろうとする気持ち、
    この気持ちも、きっと本来生まれながら備わっている気持ちだった。
    それを、その真実を、信じられるか。

    それが、花や樹が私に問うている「問い」だった。

    「私のことを信じていますか。」
    「私のことを大好きですか。」
    「私の個性を大事に認めてくれますか。」
    「私が弱っていたり、困っていたりしたら、助けてくれますか。」
    「私のことを心配してくれますか。」
    「私の成長を諦めずに、信じてくれますか。」
    「私が倒れたら、抱き留め、支えてくれますか。」
    「私のことをいつもいつも見守ってくれますか。」
    「私と一緒に笑ってくれますか。」
    「私のために涙を流してくれますか。」
    「私に優しくしてくれますか」
    「私と一緒にいてくれますか。」
    「私を褒めてくれますか。」
    「私を温かな眼差しで見つめてくれますか。」
    「私にずっとずっと生きていてもせいたいと願いますか。」
    「私を神様からの預かりものとして大切にしてくれますか。」

    これが、花や樹やいのちからの、私への「問い」だった。

    私は、そうしてあげられているのか・・・・。
    それは、わたしからの私への「問い」だった。
    だから、いつも考える。次の手当てを。次のかかわり方を。

    この答えも、きっと無声の声で、伝わるものだ。
    きっと「言葉」では、大事なものは伝わらないのかも知れない。
    確かに「言葉」も大事だ。
    しかし、もっと大事なものがあるのに、
    その大事なものを、みんな忘れてしまったので、
    子どもは、きっと、今も無声で問い続けているのではないだろうかな。

    子どもは一冊の本である。
    それも世界でたった一冊の本である。
    そして、その本は読まれることを待っている。
    そこに書かれてある言葉の真意を感じ、理解し、了解する本物の読み手だ。

    それは、花や樹や野菜たちが、
    本物の農夫を求めていると同じ気持ちなんだな。

    ここで、やっと私は分かった。
    何で教育が英語でカルチャー。つまり「耕す」なのかを。
    同じなんだ。全く、同じだったんだな。

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