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  • from: クマドンさん

    2020年06月19日 07時03分46秒

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    気持ちよく死にたいなぁ

    終末期医療の話。
    今朝の「明日への言葉」がこの話だった。

    医師で小説家である南きょう子さんがゲストだ。
    彼女は結婚し子育てをしながら、33歳で大学の医学部に入学した。
    38歳から市立病院での勤務から、医師としての道を歩き始めた人だった。
    「どうしても医者になりたい」
    「たった一度の人生なのだから、やりといことを仕事にしたい」
    そうした想いで跳び込んだ道だった。
    家族の理解と協力には、とてもとても感謝している人でもあった。

    高齢者医療に内科医として携わることになった。
    そして、当然のようにして人の死について考えるようになった。
    理想の終末医療とは何か。
    最期は静かな死を、看取った家族が幸せになる死か、
    あっていいのではないかという「問い」から、
    多くの患者さんたちの最期に立ち会いながら感じ、思ったことを書きたくて
    「サイレント・ブレス」という6つの物語の本を書いたそうだった。

    印象的な言葉がいくつかあったので、ここに記す。

    「痛みには、社会的・経済的・肉体的な痛みの他に、魂の痛みがあります」
    「その痛みは、死を前にして「人生の意味」を求める痛みです」
    「そのために、今、医療と宗教が結びついています」
    「臨床宗教師という人たちが、死に逝く人に死を受け入れられるようにしています」

    「死とは、その人の人生の最期を生きるための時間ですね」

    「ご自分が膵臓がんになり末期になった医師が言っていました」
    「逆算と言う思考が必要だ」
    「つまり、後何年・何カ月しか生きられなかったら、その時間を気持ちよく生きる」
    「自然に死んでいく道を選び、無理な延命治療はしない」
    「点滴の管と人工呼吸器と、心臓マッサージ。それは苦痛しかないのではないか」
    「だから、残された時間を自分の好きなことをやって気持ちよく生きる」
    「死ぬ瞬間から逆算して、残された時間として、今、ここを、生きる」

    「人は、死が近づくと、食べたくなくなる」
    「動物と同じだ。老衰は、苦しくない」
    「食べたくなくなると、身体に蓄えられたものだけで生きる」
    「それが尽きた時に、すーーっと息を引き取る」
    「死は、生命活動を閉じる当たり前のプロセスに過ぎない」
    「だから、死に逝く人には余計な負担をかけないことだ」

    「死は、ゴールだ」
    「そのゴールを本人も家族も平安に、幸せに迎えたい」
    「過剰な医療は、かえってその命を縮めるものだ」
    「治療を受けないで死ぬ」
    「海面すれすれに飛ぶ墜落しそうな飛行機を、また飛ばす必要があるのだろうか」
    「いずれ墜落するのなら、本人に気持ちよい、寄り添うような治療がよいのでは」

    「医師には、二つのタイプがある」
    「死ぬ患者に関心のある人と、関心の無い人だ」
    「人は必ず死ぬ。しかし、その死を負けと思わない医療」

    「安楽に死なせてあげる」
    「最期に「おめでとう」と言ってあげられる最期とする」
    「最期の時間を心地好さを優先させる」
    「亡くなったその人が、幸せそうな顔をしているか」

    南さんは、そうした死に立ち会い、その死を見つめ、その死を考えた。
    その中で、「理想的な死とは何か」「その死を迎えさせる医療とは何か」
    その「問い」の答えが自分なりに見えて来たような気がしたので、
    誰かの人生のプラスになることならばと、
    その気付いたことや、発見したことを小説に書いたのだそうだ。

    私の父も母も、ここに記されたような死を迎えた。
    そして、その死を看取ってくれた医師は、死に関心のある医師だった。
    人が死ぬと言うことは、その人の人生の幕を下ろすということだ。
    その最期の時をどのように迎えたいのか。迎えさせたいのか。
    やはり、人はいつかではなく、今、ここで、考えておくべきだと感じた。

    私は、医師と約束をした。
    絶対に延命治療はしないでくださいと。
    心臓マッサージだてけでいいです。
    そのまま、何も苦しめず、痛い想いをさせずに、
    静かに、そっと息を引き取らせてください、と。
    そのことを、今でもそうしてあげてよかったと、思っている。

    父や母は、最期まで安らかだった。
    きっと聴覚は最期まで残っているから、
    私たちの感謝の言葉や、別れの言葉は聴いてくれたと信じている。
    呼吸が緩くなると、顎が上がる。
    時々、その呼吸が止まり、しばらくすると、すーっと息を吐く。
    その繰り返しが始まったら、別れの時がもうすぐだと分かる。

    手をしっかりと握りしめる。
    涙が溢れて止まらない。
    「ありがとう」「ありがとう」と、ただただ感謝、感謝だ。
    そうすると、うっすらと父も母も目じりに涙だ。
    私は、深く深く頭を垂れた。
    母の臨終では、拍手した。
    本当に厳粛で、敬虔な想いに打たれた。

    「ご臨終です」医師の言葉と一礼と合掌。
    父と母とせっちゃんの時もそう思った。
    この遺体には父も母もせっちゃんも居ないな。
    何だかさなぎがぬけがらを脱いで、
    蝶になって飛び立ったような感じだ。

    居なくなったが、ここに居ると、確かに感じた。
    ああ、父も母もせっちゃんも、ここに戻って来てくれた。
    そんな細やかな喜びすら感じた。
    もう身体から離れたのだから、いつでも一緒に、ここに居る。
    語りかけると聞いてくれる。
    生者から死者になった父と母とせっちゃんとには、
    私は、毎日、気が付くと話しかけている。

    池田晶子が言っていた。
    「私の中に魂があるのではなく、魂の中に私が生きている」と。
    外と私とは一体で、一続きだ。
    だから、こちらから、あちらへ。
    あちらから、こちらへ。
    無くなるもの、消えてしまうものは、何も無い。

    ただ、そのことを信じられるかどうかだな。
    もし、死が全ての終わりだとしか理解できない人には、
    死とはとても恐ろしいことになる。
    しかし、私は死を看取り、その瞬間に感じたこの経験から、
    死に対する畏れはなくなり、死に対する安心が生まれた。
    「大丈夫だ」「そこからなんだ」「ただこの身体から自由になっただけ」
    それは、父と母とせっちゃんの遺体を見て、そう実感した。

    不思議なんだが、「幸せ」を感じた。
    それは、私がクリスチャンであるからだけでない。
    それは、南さんが死に向き合って感じたことでもあるはずだ。
    私は、人は「死ぬ仕事」が最後の仕事だと思っている。
    だから、幸せに、気持ちよく死ぬために、
    この逆算して残された人生の月日を大事に生きたいと願っている。

    もう1つは、「捨てる」ということだ。
    もうここから先の人生は、自分を捨てて生きたいと思う。
    もうさんざんやって来た。
    好きなように生きて来た。
    だから、何かこんな私でも役に立つ、何かの足しになる、感謝される、
    そんな仕事をして生きたいと思っている。

    それから、「布施」だな。
    お金は無いのでお金でやれることは限られているが、
    笑顔・優しい言葉・涙・共感・黙々と働く等、
    相手の人に気持ちよくなってもらえることは、
    少しでもできる気がする。

    きっと、後何年健康で生きられるかは分からないが、
    こんな気持ちで人の為に生きられたら、
    きっと私の最期は、
    ちょっとだけでも「幸せ」な気持ちになれるのではないだろうか。
    「俺が、俺が」を止めたのは自分自身のためなんだな。
    もっと優しく、もっと笑顔で、もっと人の為に進んで働く、汗を流す。
    これも、私の最期の仕事。

    父も母もせっちゃんも、立派に「死ぬ仕事」をやり遂げた。
    死を受け入れる。じたばたしない。静かに定めに従う。
    クリスチャンである私には、死は希望である。
    私は、これを信じている。
    そこからの私こそが、本来の魂としての私だからだ。
    だから、静かに、感謝と別れを告げて、逝きたいと願っている。

    ただ一つ。苦痛だけは、勘弁してもらいたい。
    だから、余計な延命治療は絶対にやらないでほしい。
    死ぬことは、私にとって希望なんだ。
    死に逝く私の気持ちを尊重してほしい。
    だから、痛みで苦しんでいたら、その痛みを緩和して欲しい。
    気持ちよく、心地よく、最期を迎えたい。

    医療では、ホスピスのように死に対して向き合う時代が来ている。
    死ぬ人を死なせないのではなく、
    死ぬ人を心安らかに死にむかわせる。
    それは、肉体の痛みの緩和だけだなく、
    本当は、死ぬことへの痛み、つまり、魂の痛みの問題なんだ。
    そのことを解決せず。
    その「意味」を了解せず。
    自分の人生を「生きて来たよかった」と想うこともできずに死ぬとしたら、
    その痛みと孤独と絶望の方が、
    本当は終末期医療の課題ではないのかと、私も考えている。

    気持ちよく死にたいものだ。
    そのために、今、ここを、気持ちよく生きたいものだ。

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