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  • from: クマドンさん

    2020年06月25日 07時22分42秒

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    私の優先順位とは何かの

    昨日、午前中に教会で「αの学び」があった。
    これは、全部で15回の信仰の学びの講座だった。
    イギリスの牧師が講師として、教会員たちに信仰とはなにかを語る。
    そのDVDの映像を観ながら、
    私たち教会員たちが改めて信仰に付いての原点を学ぶ講座だった。

    1講座に映像は50分間。
    そこから1時間のお互いの思いや考えをシェアする時間とする。
    ここで、クリスチャンとしての今の自分を語り合う。
    そこにもまた新たな気付きと学びとが生まれる。
    私は、2月からこの講座に参加した。
    第1回から15回まで。
    本当に仕事をしながらよく続けられたことと感謝している。

    全てのことには時があった。
    この講座をもし、何も無かったら私は受けなかったと思う。
    どれだけ牧師さんに勧められても、
    なんだかんだとこの受講を拒んでいたのではないだろうか。

    しかし、あることから、この講座を受けることが余儀なくされた。
    選択肢は、「受講する」しか与えられていなかった。
    それが、私にとっては時となる。
    「そうか、今、なんだな」
    いつもこうして選ぶべき道は、選ぶべき時に示される。
    私は、そこで私の思いではなく、神の思いに従う。
    それだけが、きっと今の生き方。私を育てていると信じている。

    優先順位の話になった。
    私たちクリスチャンの優先順位は決まっている。
    それは第一に神である。
    私は、今回のさまざまな試練の中で、
    確かに、いろいろな選択を迫られてここまで至って来た。
    そして、選択が続けば続く程、
    何ができたかというと、
    「全てをお任せします」という「委ねる」という態度だった。

    だから、私は、いろいろな選択場面において、
    もし、自分自身が悩んでいたとした、
    それは、私の我がままや利益を優先に考えてのことと考えていた。
    もし、ここで、「やめます」「それはできません」と言えば、
    そのことで、御心にかなった決定ができないからだ。

    つまり、その選択肢が生まれたことは、
    私に対する神からの内面での「問い」が生まれたことでもあった。
    生きることは、問うことだ。
    生きることとは、問い続けることだと、私は思って生きている。
    だから、その「問い」は、いつもみの胸にある。

    問いということは、その答えを探すと言うことだ。
    その答を探すと言うことは、
    自分自身としっかりと向き合うことだ。
    そして、考えることだった。
    池田晶子さんがいつも語ったように、
    「悩むな。考えろ」だ。

    私は、この歳になるまでどれだけ多くの選択の場に立たされたことか分からない。
    私は、30年以上も教会に行かず、聖書も読まなかった。
    まさに、放蕩息子そのものだった。
    しかし、母が亡くなり、父が介護施設に入り、あることから孤独に陥り、
    本当に人生に絶望したその日、私は、この教会に導かれた。
    そこには、私に35年前に洗礼を授けてくれたS牧師の祈りがあったからだった。

    つまり、私は、ある日、ある時に、礼拝に参加することを選択した。
    それは、既に、私の思いや考えでなく、
    そうなるべきことが、ただそうなったのに過ぎないことだった。

    ここで、とやかく考えないことにした。
    次は、毎週の礼拝を最優先として、日曜日にこの教会に行くことだった。
    身体をまず運ぶ。
    とやかくその理由だとか、意味だとかは、考えない。
    呼ばれたまま、招かれたまま、そこに行った。
    そして、孤独と絶望の最中であったから、
    その聖書の御言葉と、牧師からのメッセージが魂に沁みた。

    「いかに人が生きるべきか」
    「いかに人が愛を求め続けているか」
    「その愛は、このイエスの教えそのものにある」
    そんな「問い」と「確信」とが、次々と繰り返された。
    その度に、私は、選択の場に立たされた。
    そして、自己決定した。
    それは、「全てを委ねる道」へ歩むことへの決意でもあった。

    それからだ。
    私の決定には、神が介入した。
    それが、私の心にいつも浮かぶ「問い」だった。
    ある日、分かった。
    「そうか、この問いは、私が造り出したものではないな」と。
    つまり、「問われているのは、私なんだ」という気付きだった。
    では、一体誰がこの「問い」を私に与え続けているか。
    それが、神であり、イエス様だった。

    つまり、信仰を持てば持つほど、
    その確信を深めれば、深めるほど、
    その「問い」とは、神の道か、己の道かの選択となって行った。

    だから、信仰を持たない人たちにとっては、
    「お金」「仕事」「時間」「地位・名誉」「権力」「家族」「遊び」等等
    その選択と決定の中には、
    神の視点は必要がないのである。
    自己の視点とでも言うのか、
    いろいろな条件や場合を考え、吟味し、計算して、
    自分にとって利益となるもの、
    得となるものの選択となることが多くなるのではないかと考える。
    それは、私が、そうだったからだ。

    損することは選びたくなかった。
    しかし、いつも相手のことは考えた。
    だから、その相手との折衷の場はどこかと模索し、
    そうした半ばを決定とした。
    その時、何を優先にするか、きっと考え、値踏みしたと思う。

    しかし、今、ここでは、違うのだ。
    私にとっては、全ての基準が神となる。
    というか、神としてのこの内面の「問い」となる。
    つまり、私は、フランクルではないが、
    内面に生まれるこの「問い」に対する敬意と信頼とをもてるようになったのだ。

    「問い」で、生かされる。
    「問い」に対するアンサーが、私自身の生き方となる。
    だから、まず、何か困難なことに出会ったら、
    何か選択すべきことに出会ったら、私は、真摯にその「問い」に向かい合う。
    そして、その「問い」が無言で語るその唯一の答えを選ぶ。
    その時は、私が選ぶのではなく、
    本当は「全てを委ねる」「お任せする」

    すると全てのことが気持ちよく、スムーズに進む。
    それは、私の自己を先とした想いではなく、
    私の「問い」を宿したこの身体の選択だからだ。
    だから、私は、「問い」を信ずると同時にね
    今は、その「問い」を宿しているこの身体のことを信ずるに至った。

    身体は、自然のあるがまま。
    そして、身体は神からの被造物だ。
    ここには、確かに神の息吹が宿されている。
    この身体に聴くこととは、その無言の言葉を聴くことである。
    だから、私は「問い」を聴き、素直に身体の選択に従って生きるようになった。

    今回の学童保育の支援員の仕事もそうだった。
    本当は、指導支援員の試験を受けるために願書を出した。
    しかし、60歳定年とのことで、丁重に願書が送り返された。
    そして、同時に市報にある学校の学童保育の支援員の募集があった。
    私は、午後から5時間のこの保父さんの仕事に、興味があった。
    それも、自転車で通える距離である。

    だから、一日考えてから、主に委ねた。
    結果は、身体がまたいっそう気持ちよくなっている。
    日々、修業は、今の私には必要なことだった。
    我が家に居て、林住期だけでは、
    鍛えられる道場とはなかなかなれないからだった。
    自分にはどうしても甘くなる。
    「まぁ、いいか」と、ついつい言って慰める。

    しかし、責任ある仕事つけば、それは言えない。
    人間関係のしがらみの中にも入れられる。
    時間に縛られ、義務に縛られ、責任を負わされる。
    それでも、やっぱりよかったと、私は思う。
    疲れ果てて、ぼろぼろになって帰宅する。
    その時のビールの美味いこと、美味いこと。
    これも身体が喜ぶ証だ。

    さてさて、日々の生活のなかで、選択はいつもいつもだ。
    実は、生きると言うことは、選択の連続のことだった。
    選択するから決定があり、決定があるから行動が生まれる。
    絶えず、絶えず、そうやって生きているのが、私の、今日一日。

    その時だ。
    何をその選択と決定の基準にするか。
    何を優先順位のトップと考えるか。
    そのことで、その人の生き方と人生とが決まると言うことだ。

    どうしてこんな人生になったのか・・・ではない。
    実は、全て自らが選択し決定した結果に過ぎないのだ。
    ただし、私は違う。
    今は、少しでもまだ自己が残っているが・・・(ごめんなさい)
    今は、全てをお任せして、委ねて生きている。

    これが一番楽で、気持ちよく、自由で、身軽な生き方だと、
    62歳と10カ月は、実感している。

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