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  • from: クマドンさん

    2020年06月27日 06時40分23秒

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    保父さんとしての修業は続く

    学童保育での保父の仕事を続けている。
    幸いにも晴れと曇り。
    昼食を造り、それを食べてから自転車で向かう。
    到着すると汗が出る。
    黄色いタオルで鉢巻きをする。
    エプロンを着る。
    マスクを付けて、名札を下げる。
    保父さんへの変身だった。

    心掛けていることがある。
    それは、「黙って、仕事する」ことだった。
    ダジャレと冗談は、封印した。
    子どもには時々、言っているが、仕事中はそれをしない。
    だから、黙々とルーテーンのまま、掃除機をかける。
    手摺や棚の上の誇りを払う。
    テーブルのアルコール消毒をする。

    子どもたちが返って来る。
    「お帰りなさい」と1人ひとりの名前を呼んで1年生を迎える。
    帽子と水筒を自分の場所に掛けてから部屋に入る。
    それだけのことを忘れている子どももいる。
    だから、声をかける。
    その時、「名前を呼んで」声をかける。
    名前を呼ばないと、誰のことか本人も分からないからだ。

    部屋に入ってからも走り回っている男の子たちがいる。
    そうしたいから、きっとそうしていると、私は思う。
    ただ、一度だけは注意する。
    「危ないから、止めましょう」と。
    それで止められる子どもたちではない。
    クラスの違う友達に、ここでは会える。
    きっとその喜びからなのだと、私は思う。
    だから、危なくないようにして、しばらく「見守る」。
    すると落ち着き、行くべき場所で座って待っている。

    子どもたちの表情をよくよく「観察」する。
    何気なく見ているのではなく、
    「よく見よう」として、その近くに座りじっと見ている。
    傍からは、私は、何もしないでただ子どもたちと一緒に、
    テレビを観ているように思われる。
    しかし、私の思考はフル回転だ。
    「子どもは一冊の本」である。
    それも、日々新たなページが付け加えられている。
    そうやって観ることで小さな「成長」に初めて気付くことができるからだ。

    子どもを観る時は、「プラス思考」で観る。
    昨日と今日とは、どこが違うか。
    何か違っていたら、その「原因」を探る。考える。
    A子さんが、いつも玄関でぐずぐずとして部屋の中に入らない。
    ランドセルをロッカーに入れ、連絡帳を出すまでに時間がかかる。
    「どうしてかなぁ」と、毎日、観察する。
    すると、ある日、大好きな先生が席に座るまでの全部の行動に寄り添ってくれた。
    優しく、笑顔で言葉をかけ、出来たことを褒めてくれた。
    すると、すーーっとどこにも滞らず、席に着いた。
    その時の子どもの気持ちを「察する」。
    そしたら、その気持ちに応えて、寄り添う。

    私は、子どもは、感情的に充たされない時、
    素直に自分の行動をコントロールできないものだと思っている。
    ここへ来るとすぐに暴れ、走り回る男の子がいる。
    先生から何度注意されても、従わない男の子がいる。
    連絡帳をその子に届けても、「俺のじゃない」と、返す男の子がいる。
    とにかく喋り続け、全く落ち着かない男の子がいる。
    先生から声をかけてもらい、寄り添ってもらわないと先に進めない女の子がいる。

    しかし、それらは、その子の個性であり、その子らしさだ。
    確かに、他の子どもたちとの比較の中で評価したら、
    手のかかる子となるだろう。
    けれど、そうだろうかの「問い」だった。
    彼も彼女も、そうしたくてそうしているのではない。
    何だかそうなるから、そうなっているだけではないのか。
    学校が始まってまだ一カ月も経っていない。
    この子たちは、まだまだ入学したての1年生だ。
    幼稚園・保育園のままの子も多くいる。
    それが、この目の前の事実なんだとの気付きだった。

    すると、いつか、本人が学ぶ日が来る。
    それは、いつかはまだまだ誰も知らないが、
    ある日、ある時に、「あれっ、座っているよ」という日が必ずやって来る。
    つまり、今、目の前の困った事象は、
    困っている大人たちに対する、その子たちからの「問い」でもあった。
    「ぼくのことを、何とかできますか」
    「私は本当はこうしたくないのだけれど、どうしたらいいですか」だな。
    それは、本人も気付かない、「無言の問い」だと私は考える。

    つまり、ステロタイプで判断しない。
    この子は、この型。この子は、この型と、すぐに決めつけない。
    この子は、とても困った子だとは、思わない。
    この子は、今、ここに居る、この子だけの唯一の存在と感ずる。
    だから、アセスメントが必要になる。
    とにかく、鍵穴と同じだった。
    この子の心の扉を開けるためには、
    この子に合った、この子だけの鍵を見つけねばならなかった。
    そして、試行錯誤を繰り返し、長い時間と月日をかけて、
    その蠣を少しでも完成に近いものにするために努力する。
    それが、その子と出会った大人の役目だ。

    尊重するとは、けっして、注意しない、指導しないということではない。
    尊重するとは、その子と出会った大人が、私を捨てることだ。
    私のちっぽけなプライドを捨て、私の周りからの評価を捨て、
    私の怒りの感情を捨て、私の固執した子どもの見方を捨てる。

    私を捨てると、その子が、ありのままに、ここに生きる。
    私が、私で居る限り、きっと私は、その子のありのままを観ることはできない。
    つまり、その子の本質は、本心は、ここにあるのだけれど、
    ありのままを観ようする大人が居ない限り、
    きっとこの子の本質である「善さ」は、
    この子も、この子の親も、この子の先生も、
    気付かないで過ぎることだと私は思う。
    そのことは、この子にとっては、とてもとても残念なことではないだろうか。

    「言うことをきかない」「落ち着かない」「手がかかる」「暴れる」
    こうした子どもは、大人たちから「困った子」と感じられる。
    まず、前提がそこだ。
    次に来るのは、いつもいつもその子だけに集中する大人の注意・指導だ。
    時には、大声で怒鳴られ。叱責され。説教をされる。
    しかし、その本人は、どうしてこんなに叱られているのかも分かっていない。
    怒鳴られて、叱られた子は、どんな気持ちや感情になるか、
    それは大人たちも分かっているはずだ。
    しかし、大人は、根気が無い。短気である。感情的過ぎる。
    だから、大きな声で注意する。
    言うことをきかないから、もっといらいらとして厳しい態度で当たる。

    「また叱られた」「また怒鳴られた」「また注意された」
    その百や千の日々の繰り返しの中で、
    子どもは考える。
    「どうしてぼくだけ、先生は注意するのだろう」と。
    そして、苛立ちを募らせ、怒りを貯め込み、反発を感じる。
    そう考えると、どちらが先か、分からなくなる。

    そうなっているのは、きっとそうされて来たからなんだ。

    そう考えてくれる大人が、その子の傍には必要である。

    黙って仕事をしているのは、何も人から仕事をしていないように見えるのは、
    今は、とにかくよくよく1人ひとりの子どもたちを見つめ、
    この子の本質・ありようを少しでも分かりたいと願うからの努力でもある。
    周りの大人のことを気にして仕事すると、子どもは見えなくなる。
    じっと定点での観察をしないと、小さな変化・成長を見落としてしまう。
    絶対に「善さ」はある。
    この見かけの荒々しく落ち着かない行動をしているのは、
    この子の身体だ。
    多動であるその身体を、この子はコントロールはできない。
    この行動は、全て身体が行う無意識だからだ。
    それを、「叱って」どうしようというのだ。

    私は、子どもの行動だけを見ない。
    いつも、身体の動きやその態度の奥に本人すら分かっていない、
    その子の人としての本質・「善さ」は何かと、ずっとずっと見つめ続ける。

    すると、その子の声が聴こえて来る。
    「私は、こうしたいのに、先生はそれを認めない」
    「私が悪くないのに、先生は私だけを叱る」
    「私は、お母さんから叱られてイライラしているのに、分かってくれない」
    「何だか身体が勝手に動きたがっているだけなのに、怒られる」
    「私は、あのことがとてもとても気になって落ち着かないだけなのに・・・」
    「私だってやろうとしているのに、みんなと同じようにできないだけ・・・」
    そんなつぶやきや独り言だ。

    学童の先生方は、本当に優しい素晴らしいお母さんたちだ。
    私は、学校現場からやって来た教師であることをここでは捨てている。
    私も、他の先生方と同じようにここでは父親にならねばならないと感じているからだ。
    つまり、「教える」「指導する」人ではなく、
    「育てる」「親」としての立場の人として、子どもたちに接する努力だ。
    すると、だんだんこうした声が聴こえるようになってきた。

    まず、教えない。
    まず、よく見る。じっくりと考える。

    今は、そうした自分を捨てて、相手のことを先にする態度で、
    いろいろなものを見つめなおしている最中でもある。
    「分かったつもり」「この子はこうだ」ということは、やりたくはない。
    まず、相手になる。「なりきる」「きなりになる」。
    そこで、聴こえる声だけを、心に留める。

    これが、私の「保父」さんとしての日々の修業だ。

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