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  • from: クマドンさん

    2020年07月11日 06時49分13秒

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    家住期から林住期へ移住する

    久しぶりの「途中の会」だ。
    小千谷のSさんとは、ちぢみの里で昨年、何回か会って語り合った。
    しかし、このウイルスのことで外出自粛となり、
    緊急事態宣言が出され、
    ウイルス感染の恐怖の中、
    私たちも、お互いに会って語り合うことを自粛した。

    それでも、私が午後からの勤務なので、
    午前11時には、できるときにはSさんに電話して来た。
    そうやって、お互いのその日その日の気付きについて語り合う。
    私もこの数カ月間のstayhomeで心の変化があった。
    それは、Sさんも同じだった。
    「やわらかい石」について、お互いに語るようになり、
    いかに、この「やわらかい石」の生き方が必要なことかよく分かった。

    だから、だんだん「固い石」の人とは、疎遠になった。
    それから、「固い石」の集まりには参加しないようになった。
    しかし、しがらみのために、義務として参加せざる得ないこともある。
    そして、出る度に思う。
    「やっぱり、来なければよかったなぁ」と。

    「林住期」とは、こうした世間とは孤絶した、
    遠く離れた位置で生きると言うことらしい。
    私にはその森はないけれど、庭を囲むブロック塀がある。
    その塀の中のこの緑の空間が、私の住まいとなっている。

    人とかかわると、かかわったぶんだけ、心が騒ぐ。
    それは、人は人それぞれの気持ちで生きているからだ。
    仕事場でもそうだった。
    私に対して思っていたり、願っていたりすることは、みんな違う。
    そのどれに合わせようかと迷っていると、
    それだけで、疲れ果てることとなる。
    だから、ここでも心の林住期だ。
    「孤」で生きる。
    言われたことだけを、「はい」と言って素直に従う。

    余計なことは言わなくなった。
    もちろん、ダジャレは封印している。
    別に真面目な人に思われたいからそうしているのではない。
    あまり深くかかわることで、難しい関係になることを避けているだけである。
    誰にでも平等・公平が一番なんだ。
    それも林住期の生き方の一つのようだ。

    それから、違いを認め、了解している。
    言っても無駄なことは、言わないことにしている。
    他人の考え方・感じ方は、まさに千差万別、みんな違う。
    どれがいいとは、決して言えない。
    でも、自閉的な人は、自分が正しいと、ただそう想う。
    そして、自分が思ったように相手が動かないと、腹を立てる。
    そんな被害を、私は「空気が読めない」ので、あちらこちらで受けて来た。
    だから、「言わない」「変えようとはしない」「そのままを認める。諦める」
    そのことを教訓として生きている。
    これも林住期の生き方の1つだ。

    あれが欲しい。これをやりたい。
    それもだんだん無くなって来ていることもよく感ずる。
    あんなに映画館に通い、映画を観続けて来た私が、
    映画館にしばらく行っていないのだ。
    シメ・ウインドの上映予定を見て、カレンダーに書き込んでもいない。
    おかけで、二本、大切な映画を観ないで終わった。
    しかし、それは、それで仕方ないと、思えるようになった。
    実は、庭を観てぼーっとしていると、これから映画館にはとは、
    思われなくなってきた。
    この欲の無さも、林住期の特徴だ。

    今、こうしていても、昨夜の酒が身体のどこかに残っている。
    だから、気分が優れず、身体のどこかが重く、どんよりとしたままだ。
    慢性的な寝不足は仕方なかった。
    毎朝、3時50分には起きて、ラジオを聴いている。
    睡眠時間は、確保しているつもりでも、慢性的に眠たい。眠たい。
    健康第一と、そんな時は、無理をしない。
    積極的な休養を第一として生活している。
    身体を鍛える意味では、ヨガとスクワット、ダンベルを毎日の日課としている。
    身体と共に生きる。これも林住期を生き抜く覚悟だ。

    昨日のことは、すっかり忘れた。
    明日のことは、何も思わない。
    今、ここ、それでけで生きている。
    考えることが好きだ。
    だから、気付くことのその「意味」をよく黙って考えている。
    仕事の途中でもそうだった。
    単純な作業をしている時や、何もすることが無い時は、
    いつの間にか、考えている。
    思考する生活とでも言うのだろうか、林住期の生活はこれだった。

    今日、「途中の会」でもう一人のWさんと、久しぶりに会える。
    彼は、P病と言う難病に罹っていた。
    身体の不自由や、疲れを感じ、時には立っていることも難儀なこともあるようだ。
    彼は、これからの自分の生末に不安を抱えて生きている。
    彼にとっては、その日々の身体の不自由と痛みと震えとが、
    いつもいつも彼に対する「問い」でもあった。

    彼は、まだまだ一家を支えて行かねばならない働き手でもあった。
    58歳。定年まであと少しなのだ。
    しかし、その少しの期間を無事に乗り越えられる自信は彼には無かった。
    だから、「どうしたらいい」と、アドバイスを求められる。
    しかし、私にも、Sさんにも、その「問い」に対する「答え」は無かった。
    聴くことはできても、答えることは難しい。
    その身体からの問いについては、
    自分の身体の名医である自分自身で答えを追究するしか方法は無いと思う。

    しかし、まだまだWさんは、「固い石」のままだ。
    理屈で何かを考えようとする。
    答えがどこかに存在していると思い込んでいる。
    だから、外にばかりそれを求めるために、
    不安で、心配で、いつも迷っている。
    それは、この世の中で仕事を続け、必死に頑張っている人たちと同じだった。
    「固い石」の人は、答えが在ると思っている。
    そして、自分がその答だと勘違いしている人たちも多くいる。
    しかし、彼は、まだまだその答えを外に求めるばかりだった。

    この生き方が、世の中や社会で生きる人たちの生き方でもあった。
    それを、「家住期」の生き方と言う。
    どっちが「固く」て「頑固」なんだの競い合い。
    とっちが「偉く」て「権力者」なのかの比べ合い。

    私もSさんも、もうそこには居ないことを幸いに思っている。
    日々は、林住期の心構え、それだけだ。
    しかし、Wさんは、まだまだ「固い石」の最中に生きる。
    そして、迷う。苦しむ。不安に想う。外に答えを求める。
    しかし、外には答えが無いから、また迷う。
    その内に、身体がどんどん辛くなる。

    私もSさんも、彼の心と身体の痛みを想うと辛くなる。
    しかし、私たちには何とかしてあげらける力は無い。
    その無力であることを了解するのも、林住期を生きる人の定となっている。

    「途中の会」とは、死に向かって日々を生きる過渡期の会である。
    私たちは、家住期の真っただ中に居た時、
    本当によくよく闘った同士でもあった。
    しかし、Sさんは、83歳。私はもうすぐ63歳である。
    だから、いつか忘れたが、ある時から、こちら側に移住した。
    しかし、Wさんは、まだまだそこに生きている。
    「こっちにおいでよ」とは、呼びかける。
    しかしなかなかこっち側には移住はできない。

    それは、こっち側に来るためには、何かを捨ててこなければならないからだ。
    彼は、捨てない。捨てる気が無い。
    でも、どうにかしたいと願っている。
    しかし、「捨てない」限りは、いつまでもそっち側なんだ。

    そんなことを今回の森の旅で分かって欲しい。
    それは、私とSさんとの二人の祈りでもあった。

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