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  • from: クマドンさん

    2020年07月24日 14時10分44秒

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    「柔らかい石」のまま死にたいなぁ

    今日がどうして「スポーツの日」なのか、
    私は何も分からずに休日にしていた。
    さっき、池江選手がテレビに出ていた。
    来年の今日、オリンピックの開会式ができることを祈っていた。
    「そうだったのか」
    「今日は、2020年東京オリンピックの開会式の日だったのか」
    と、驚いて話したら、本当に「どうなってんの」と妻に呆れられた。

    「そんなことも、知らなかったんだ」だった。
    しかし、彼女もそのことを知らず、
    職場のみんなに呆れられたとのことだ。
    ならばそんな顔をしないで、もっと優しく教えてくれよ、だよなぁ。

    この日が、世界中でオリンピックの開会式を見つめ、感動する日だった。
    何だか嘘のような本当の話だった。
    あの開会式の式典が、行われるはずの国立競技場には人はいない。
    それどころか、外国からの観光客は皆無の状況だ。
    GO TOで日本中では、観光客が移動している。
    どうして、こんな時期に旅行しなければならないのか・・・。
    これで感染が拡大しないことを祈っている。

    このオリンピックの計画をして、何年も前から準備をしていたことが、
    全て、このウイルスによって、消えてしまった。
    オリンピックが、ウイルスで開催できないこの事態を、
    昨年、誰が想像していただろうか。

    明日のことは、誰にも分からない。
    それが、真実だと私は思う。
    私のこともそうである。
    私が明日も生きていられるという保証は、誰にでもできないこと。
    そうした無常迅速の中で生かされている命に過ぎないこの私。
    その自覚が、日々を生きるのに、とてもとても大切な自覚だった。

    「いつか人は、必ず死ぬ」
    「メメント・モリ」とイタリアの教会に掲げられた時、
    ヨーロッパは、ペストに侵され、次々と人が死に、
    埋葬することが追い付かず、死者はそこらに山積みされた。

    人は、必ず死ぬ。
    ならば、今、ここを、どのようにして生きたらよいのか。
    「より善く生きる」とは、どのような生き方のことを言うのか。
    または、そう信じているように、私は生きているのか、
    その「問い」を「問い」続けることが大切なことだと、私は考える。

    そのためには、何かから離れることだった。
    自分を縛り付け、決めつける何かからの自由だった。
    「そうしなければならない」「そうすることが正しいのだ」
    そうした既存の、既成の考え方に縛られず、
    自由に生きる。
    その方が、ずっとずっと楽な生き方ではないだろうか。

    Sさんと、さっき電話で話した。
    私は、昨夜、久しぶりの3人での飲み放題だった。
    そこで、私は、またまた「固い石」にぶち当たり、
    無駄とは知っていながらも、熱く熱く闘いを挑んでしまった。
    「これは、こうなんだ」「それは、仕方ないんだ」「それが世の中だ」
    そうした「固い石」の考え方に対して、
    私は、酔っぱらうと平常心でいられなくなってしまう。

    63年間、きっとその人はそうやって生きて来た。
    だから、ぶれずに「固い石」のままだ。
    私は、この人生においてどれだけ潰され、痛めつけられ、批判された。
    だも、私は、私も「固い石」にはなりたくはなかった。
    自分が「固い石」にならねばならないそんな立場には立たないことにした。
    今は、そうした人たちとは距離を置いた位置で生きている。
    この場所は、とてもとても「気持ちのいい」場所だった。

    ところが、せっかくの飲み会に、「固い石」の話が出る。
    もう一人の友は、私が「柔らかな石」を学んだ友だった。
    彼は、禅の道場に30年以上毎年長期の休みには通って、修業している男だ。
    彼と私とは、30年以上のこれまた腐れ縁である。
    だから、「あ」「うん」で、すぐに心が通じる。
    語る前に、「そうだよなぁ」と言うと、「うん、そうだ」と応える。
    だから、説明はいらない。
    二人はどういうわけか一つであり、その一つを守り続けて今があるからだ。

    しかし、偉い人の道を退職まであるき続けた人は、違う。
    その組織を生き延び、その上に上に登りつめるためには、
    私たちが捨てて来たものを、後生大事に守って来た人だった。
    つまり、組織の中でトップになる人は、私たちとは違う人だということだ。

    そんなことは、分かってはいる。
    しかし、その「固い石」とは、飲んで、語り合いたくはない。
    それだけのことだ。
    私は、随分とわがままな男になっている。
    逆に、このことに対しては頑固で、固い石になっているのかも知れない。
    私は、「固い石」と居ると、その石と話をすると、気持ちよくなれないんだな。
    時には、イライラとして、腹を立てて、語気が強く、議論する。
    そんなはずではなかったと思っていたのに、
    やっぱりまだまだな男なんだ。

    組織のトップに立ったなら、その時こそ、その組織を改革できる時だ。
    しかし、みんなはそうは思わない。
    せっかくどれだけの苦労とどれだけの人たちを蹴落として、
    この椅子に座ることができたのに、
    自分の責任を問われるような改革なんぞ、次の誰かがやってくれ。
    このトップにいる数年だけは、
    何もしないで、そのまんま、安楽に勤めさせてくれだな。

    世の中が変わらず、よくはならないのは、
    その組織のトップが、自分の身を捨てて、改革に着手しようとしないからだ。
    しかし、その人たちは、一番この組織では改革は無理なことを分かってい人たちだ。
    だから、「固い石」のまま、ここまで来れた。
    それは、上から言われたことだけを忠実に「はい」と言って守った人だからだ。
    その人だけは、そのポストに就ける。
    その人が、まさか改革を目指すわけはないという話。
    結局、「固い石」は「固い石」のまま死んでいく。
    それだけの話だ。

    しかし、Sさんも、もう一人Jさんも、私も、その道から離脱した。
    そして、「身体に気持ちよいこと」だけをするようにした。
    すると、その道には、嘘は無く、正直に、気持ちよく生きられることが分かった。
    その生き方は、「柔らかな石」になる生き方だった。
    だから、「固い石」の人とは、出会う機会を作らないことにした。
    「何かをする」「何かのために努力する」ではなくて、
    もっと自由に気持ちよく生きる道があるのだと、思って生きられるようになった。

    そしたら、よりピュアになれた。
    その分、より傷つきやすく、この世の中で生き難くもなった。
    それでも、「それが、いい」と思って、今、私は生きている。
    「目に見えないものは、真実なんだ」と、今日、Sさんに語った。
    「目に見えるものは、消えるものだ」とも語った。
    それは、「Aだ」「Bだ」「Cだ」と決めつけ、限定することで、
    それは、目に見えるAにはなるが、
    それを言い切った時に、Bも、Cも、Dも、否定されることになるからだった。
    「世の中こうだ」「世間はこうだ」「みんなはこうだ」「こうするのが当たり前だ」
    と、「Aだけが正しんだ」と主張して、譲らない。他の考えを聴き入れない。

    それが、「固い石」の人の正体だ。
    私は、「AもBもCもDも、あっていい。」
    「それってみんな等しく、並列だ」と思っている。
    ただ、その時、その時で、身体が気持ちよく感ずることを選択すればいい。
    何も初めから「こうであらねばならない」ということは「ない」と思っている。
    だから、よく見る。敏感に感ずる。深く考える。
    そして、その時の身体が一番気持ちよく感ずることを選択し、決定する。
    その選択と決定の中には、余計な異物は入らない。
    それだけだ。

    そうやって生きている私のことを、妻はきっと「いい加減」だと思っている。
    「当てにならない」と思っている。
    「言うことが、いつもころころと変わる人だ」と思っている。
    自分は、その全く反対の生き方をしている人と、自分自身を思っているからだ。
    つまり、彼女もまた「固い石」だった。
    そして、私の周りには、実は、「固い石」ばかりごろごろと転がっている。
    そんな状況の中でも、「柔らかな石」でありつづけるためには、
    どうしたらよいのかかが、今の私たちの「問い」でもあった。

    「石ではなくて、水になれたら、もっともっと楽に生きられるな」
    無色透明のあの渓谷を流れる水になる。
    そうすれば、どんなに「固い石」の集まりであろうとも、
    すいすいとその隙間を塗って、自由に流れ過ぎることができるはずだ。
    そんな自由が、私は欲しいと願っている。

    今日、開催されるはずだった2020年東京オリンピックだ。
    今、国立競技場には観客が居ない。静かな風の音が聴こえているはずだ。
    これは、世界中の誰もが予想もしていない出来事だ。
    まさに、「メメント・モリ」の世の中なんだな。
    だから、「固い石」たちが信じていることは、
    この無常な世の中では、信ずるに値しない虚仮であるかも知れないことだ。

    来年の今日、世界中から選手・スタッフ・観光客が集まって、
    この競技場が大歓声につつまれることを祈っている。
    しかし、そうなれるという確信は、本当は誰も持っていないのではないだうか。
    「固い石」が「正しい」「絶対だ」「できる」と信じていることは、
    本当はとてもとても不確かで、流動的で、消えてしまうものでもあるとは、
    言えないだろうか。

    だから、それなのに、「正しい」とか「絶対」だとか「できる」とかは、
    私たちは言えないのではないのではないかと私は考えている。

    何を言いたかったのか、自分でも分からなくなったが、
    とにかく、私は、「柔らかな石」のままで死にたいなあという、
    ただそれだけのこと。

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