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  • from: クマドンさん

    2020年08月25日 07時10分34秒

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    一歩を超えて行く

    今日から平常勤務となる。
    長かったなぁと、つくづく感じた。
    一日の勤務は、ただ只管の忍耐だった。
    それは「修業」そのものでもあった。
    そのおかげで、私も少しはタフになったような気がする。

    毎日、ランチには「カンボス」だった。
    とにかく、このお店に通うことができたことが、幸せだった。
    私の書道の師である蒲水先生の御贔屓の店だった。
    私も若かりし頃、何とが先生に連れて来られた。
    いつもいつも先生の驕りだった。
    何だかねぇ。「カンボス」が我が家に近かったらと、いつも思った。

    ところが、私がすぐ傍に来た。
    これは、先生のお導きだと信じている。
    とにかく、私がお疲れなことをよくよく知っているママは、
    いつもいつも優しく、労いの言葉をかけてくれる。
    その言葉が、何よりもの励みだった。
    帰りには小さなポットに氷と冷水を入れてくれる。
    「行ってらっしゃい」と、送られる。
    「よし、やるぞ」と、その声を背にして、気合を入れる。

    また、ここは東区劇団の人たちもよく来ていたそうだった。
    昨年度の演目がここの商店街を舞台にした物語だったからだ。
    そして、劇のポスターの写真を、このレトロなお店で撮っていた。
    一目で「カンボス」だと、分かった。
    今も、秋葉区のミュージカルのポスターがはってある。
    私のメル友である村上のTさんも、稽古の前にはよく来ているそうだ。

    そういうお店になんだ。
    いつもランチの時間になると満席だった。
    本当に地元のお年寄りから、雑誌を見て来た若い女性たちや家族連れ。
    とにかく幅広い年代が訪れ、おいしい料理に感動して帰る。
    このお店のすごいことは、そうした馴染みの常連さんが多いことだ。
    それには、この絶品料理の数々だけでなく、
    いつも温かく迎えてくれるマスターとママの人柄にあると感じている。

    ある時、カウンターで座っていた40代の男性が私にメロンパンをくれた。
    私が、その人が勤めているとんかつ屋さんについて話かけたからだった。
    ママが、私に「子どもたちのためにコントやりましょうよ」と、持ちかけた。
    そんな二人の話を聴いた彼は、「私、書きます」と言ってくれた。
    その翌週の水曜日。サービスランチの日にその脚本を手渡された。
    「瓢箪から駒」だったな。
    そして、よくよく聞いた、彼は、村上でTさんの高校の生徒でもあり、
    朝日村の演劇鑑賞会の事務局を一緒にやった仲なのだそうだった。
    渡る世間は、よい人ばかり、だな。
    この出会いに驚いて、さっそくTさんに報告したら、もっともっと驚いていた。

    私は、昨日で11のメニューを制覇した。
    その間に、こうして劇的な物語が起きていた。
    今、その脚本を私が預かり、仕上げに入っている。
    11の美味しい料理を食べている間に、一本のコントの脚本だ。
    まさに「塞翁が馬」とは、このことだな。

    さてさて、最後の日は、カウンターに座った。
    とにかく満席、オーダーが次々と入っていた。
    「マスター、ナポリタン2、ランチ1、プリン1、アラモード1、アイス2、ホット1」
    厨房に立つのは、マスター独りだ。
    ガス代は二つ。その横に小さな流し。まな板はカウンターのすぐ前だった。
    私は、そこで、マスターの職人技を観ることにした。

    まず、段取りだった。頭の中での同時進行だ。
    50年の賜物だ。
    メニューを聴いた途端に、直ぐに、身体が動き出す。
    まさに、間髪をいれない。

    中華鍋のフライパンを火にかける。
    腕の動きは、なめらかで、しなやかで、しっかりとした動きだった。
    一つ一つその動きには、意味もあり、意図もある。
    そして、何よりも、次に繋がり、次を想定した流れでもある。

    パスタを炒める。サラダ油は心の計量カップだった。
    さっと入れる。塩・故障もそうだった。ぱっぱ。ぱっぱ。
    きっと目をつぶってもできるはず。
    長年の感は、絶対に嘘をつかない。
    余計なことを考え、迷うから、ぶれるのだ。
    じゃんじゃと悼める。
    その横の小さなフライパンには同時進行の卵焼きだった。
    これは、この店の名物の卵サンドへと使われるはず。

    さて、その身体の動きを観ていたら、
    何だか踊りのような感覚だった。
    それは、メロディーであり、調和であり、そして、リズムだった。
    そのしなやかで、美しさすら感じられる身体や腕の動きに、
    私は、いつしか魅せられていた。
    そして、キュウリを包丁で切るだけでも、
    真剣な、集中した眼差しだった。
    声をかけるすきは、そこには絶対に無かったな。
    こんなに料理をつくるということが真剣で真摯な仕事なのだと、
    あの凛とした眼差しを観て、感じた。

    とにかくすごい、すごい。
    次々とオーダーが目の前の皿の上に出来上がる。
    出来上がったそれを目指しているだけでなく、
    マスターの頭の中では、次のオーダーのメニューについて考えが及び、
    右手は、これからお客さんに出す皿に、
    右手は、コーヒーを温めるポットに触れようとしている。
    同時にいくつものことが交差しながら、すすめられる。

    それが、どこにも滞らず。
    どこにもつっかえず。
    全てのオーダーが完成されるので、休みなく続くのだった。
    その横で、ママが立っている。
    そんなマスターの様子を見て、
    次のオーダーを伝えるタイミングを測っているのだ。

    昨日、山川宗玄さんの話を聴いた。
    「作務」についてだった。

    「塵を払う。そのものと一つになる」
    「息を合わせる。和合する。和合僧第一」
    「全部無くなる」
    「本来の人間性。それこそ仏陀だ」
    「今、ここで、その只中に至る自覚を、悟りと呼ぶ」

    「一歩超えて行く。全く、世界が変わる」

    その瞬間だ。カンボスのマスターの姿、そのものと重なった。同事になった。
    そして、次の言葉が、私に生まれた。

    「無心とは、一心である。
     一心とは、無心である」  by クマ

    マスターのあの姿は、作務に集中する師家の姿そのものだった。
    彼の姿は、筋金入りのいぶし銀だ。
    私は、彼の姿に、何かを超えた一心であり、無心であるものを見た。
    魅せられた。言葉にはならない。本当は私もなりたいその何かが、ここにある。

    悟りの作務を観たかったら、是非、この店のカウンターに座って欲しい。
    「マスター、写真を撮ってもいい・・・」と、
    その言葉をかけることすらはばかられた。
    偉大で、美しい、その姿は、決して私は忘れないと心に焼き付けた。

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