新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

新規登録(無料)

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

親父たちよ

親父たちよ>掲示板

公開 メンバー数:62人

チャットに入る

サークルに参加する

サークル内の発言を検索する

新しいトピックを立てる

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: クマドンさん

    2020年09月13日 06時24分38秒

    icon

    シンプルに生きる

    久しぶりの自分へのご褒美だった。
    土曜の映画と昼飲みだ。
    これを始めたのは、何時の頃からだっだろうか。
    ここが、私の故郷となり、ここで私は、つまらない話を聴いてもらう。
    不思議なんだが、そのカウンターに居ると、ほっとする。
    好きなことを語りながら、自分のことを再確認する。
    それは、きっと黙ってその話を聴いてくれる彼・彼女だからだ。

    映画「淪落の人」
    本当に心に沁みた。
    ラストの30分余りの時間、私と両隣の70代の叔母ちゃんたちはすすり泣きだ。
    涙がどんどん湧いて来る。
    その涙を涙のままにしておく。
    こんなにも涙を流すことで、人は優しい気持ちになれるのか。
    シンプルでいい。しかし、家族の中で、そのシンプルな愛が失われつつある。

    事故で車いす生活となったチョン・ウインは、既に還暦をとうに過ぎていた。
    無為である。生きる意欲も、希望も失っている。
    いらいらとして、どん底を味わっている。
    妻とは離婚、その妻は再婚し、最愛の息子もアメリカで妻たちと暮らす。
    息子は大学に入学し、医師を目指す。
    ウィンにとっては、自慢の息子。唯一の生きる希望だ。

    住み込みの家政婦として雇われたフィリピン人女性エヴリン。
    彼女も家族によって苦難の人生を強いられ、
    香港に逃避して来た若い女性だった。
    暴力を振るい、ただ働かせて金を要求して来る夫。
    彼女は物語の途中で正式に離婚申請が受理される。
    実の母親は、金づるの彼女に頻繁に電話して、
    生活の困窮を訴え、送金を求めて来る。

    家族で息づまり、苦しんでいる二人だった。
    その二人を温かく見守るのは、元同僚のファイだった。
    不自由な生活の彼を助けるために、独身の彼が献身的に彼を助ける。

    家族ではない三人だった。
    しかし、その三人が交わす心の温かさが、私たちの涙となった。
    貧しい。身体が不自由だ。老いている。人の助けなしには生きられない。
    自分なんて生きていない方がよいのではないのか。
    しかし、ファイにも、エヴリナにも、大事大事な人だった。

    何故、彼が「夢を与える」人になったのか。
    それは、どん底の中でも、自分よりも隣人である相手のことを先に考える。
    つまり、自分を忘れ、相手の幸せを優先に願い、実行する。
    そのシンプルな生き方。
    顔と顔とを合わせて、相手の気持ちや感情に共感する。
    そして、相手の人に夢があるのなら、
    その夢が現実となるように、自分を尽くす。努力する。捧げる。与える。
    そのことが、「愛」なんだという、そのシンプルな気付きだ。

    香港の片隅の安アパートの一室だ。
    そこにどんな人が暗し、どんな人生を生きているのか、
    世の中の人たちにとって、自分たちが生きることで精いっぱいなので、
    そこにそんなに美しく細やかな物語・人生があるとは気付かずに、通り過ぎる。

    しかし、この安アハートの一室だから。
    車椅子の生活の初老の男性とフィリピンから逃避して来た若い女性だから、
    そのお互いの辛さや哀しさを理解し合い、
    自分が相手に出来ることは何かをいつも考え、
    そのことを精一杯にして、相手の喜びを自分の喜びとする。
    換金されて失ってしまったカメラを、また洗濯籠の底に入れて置く。
    それを裏切りとせず、意味として、彼女にまた尽くす。
    そのカメラを見つけた時の驚きと喜びと感謝と感動。

    私は、人はどんな場所でも、人として深く生きられると、感じた。
    「自分は、人として、深くを生きているのか」
    それは、私にとって、この日々の生活をしている時の「問い」であった。

    片隅に生きる無名な人たちの物語だ。
    しかし、ここには、華やかで贅沢な生活から失われた何かが、
    まだしっかりと生きていた。

    ラストのバス停での二人の別れだ。
    初めてここで出会った時、彼は横柄で、傲慢で、不満ばかり、怒りの男だった。
    家政婦を下働きの者として馬鹿にして、使えなかったらすぐに首にするつもりだった。
    しかし、ラストのバス停での別れでは、
    彼も彼女も、お互いに深い深い「愛」を感じ、
    最高の「敬意」も持って見つめ合った。

    一年間の二人の物語だった。
    その年月が、同じバス停に立つ二人を、こんなに深く深く人として成長させた。
    「思いやり」だな。自分のことよりも相手のことを「先」にするだな。
    時には、相手の喜びのためなら、自分はいらない。自分を捨てるかな。
    本当に人として深く深くを生きた人とは、
    人を人として深く深く「愛」した人のことなのだと、私は、今、ここに、思う。

    広東語での最高の愛を顕す言葉。
    彼女は去って行く、彼の後ろ姿に向かって叫んだ。
    彼は、電動車椅子で去りながら、彼女に背中を向けて、小さく囁いた。
    「深く深くあなたを愛する」
    その愛を味わい、その愛を生きている人は、
    どんなにどん底な生活であろうとも、きっと幸せな人生を生きられる。

    「深く深く人を愛する」
    これよりシンプルな生き方はない。
    シンプルがいい。シンプルでいい。ただ、そう私も生きたいと思った。
    それが、私と両隣の叔母さんたちとの涙だった。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

コメント: 全0件