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  • from: クマドンさん

    2020年09月22日 07時50分40秒

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    意味を味わって日々を生きる。楽しからずや。

    小千谷に電車で行った。
    ワンデーフリーパスでは、往復1,570円。
    新潟駅から自宅までの片道のタクシー料金だ。
    いつも思う。
    電車での独り旅はいいものだと。
    自分と黙って向き合う。
    田んぼや山や川や街や、そんな風景と向き合う。
    そして、駅に停まる度に乗車して来る人と向き合う。
    この部屋とは違ったライブ感だ。

    私は、その人の様子から、その人の生活や人生、生き方を創造する。
    ほんの僅かな時間の出会いの中で、
    小さな物語は生まれる。そして、その人が電車を降りる。

    さてさて、ちぢみの里まで「歩きましょう」と、83歳のSさんだった。
    とてもとても涼しかったが、20分間の道程だ。
    私たちは、話しながら、山に向かってゆっくりと歩いた。
    「授業はライブだ。笑いと涙と感動だ。エンターメントが授業なんだ」
    私が、ある大学の講師として講義をすることになったHさんへ、
    教員生活40年間の先輩として送ったアドバイスだった。
    Sさんは、いつもそうだった。
    「そうですね。そうですね。分かります」と、受け入れ、共感してくれる。
    そのことが私には何よりの嬉しさだった。

    温泉に入って驚いた。
    毎日夜中に4~6キロのウォーキングを1年間続けている。
    少しの雨でも、身体が「歩きたい」と言っているからと、歩きだす。
    ストックを握っての4足歩行だ。
    とにかく、続けていることが凄いことだった。
    その努力が身体に出ていた。
    筋肉がびしっと締まった。
    体幹が鍛えられ、しなやかに、逞しくなっている。
    立っているとがっちりとして背中が真っ直ぐだった。

    続けると言うことは、こうして心と身体が変化することだと、改めて思った。
    続けて来たその意志に、身体は正直に応えていた。

    さて、へぎ蕎麦を3人前、きんきんに冷えた生ビールで乾杯する。
    「自分」という生き方の話になった。
    二本の割りばしだ。
    右手の割りばしは、現役・現職の時代。
    左手の割りばしは、退職してから死ぬまでの時代だ。
    その二本をどう接続し、連続した人生とするか。
    本当はSさんも私もそうなんだが、
    この退職後の人生こそ、
    本当に生きている喜びとその機微を味わえる宝の時期であると了解している。

    本当に「人生は、これから」
    「これからの人生が、楽しすぎる」と、いつも笑顔だった。
    Sさんは、まさにそうした生き方の実践者だ。
    今朝もきっと散策の中で、何か新たな気付きと発見だったと思う。
    sさんのすごいところは、それわ「意味」ととらえて、
    自分の生き方そのものをその意味に同化させていることだった。

    今までこう生きて来た。
    だから、これからもその生き方で行くでは、固い石なんだ。
    今まではこうだった。
    でも、今、ここからは、やっぱりこう生きようと転換する。
    つまり、「回心」する。
    そのことを日々行う。これが生きることの機微であり、喜びと感動。

    つまり、自分を生きるとは、そうした自分を、
    今、ここで向き合っている星々や、月や、雲や、川の音に同化させ、
    気持ちよくなり、いつしかそんな自分がいなくなり、
    川の音そのものとなっている。
    つまり、自分を失くしたその瞬間に味わえるものが「本来の自分」なんだな。

    Sは宇宙と大自然と向き合いながら、そこに自分を感じる。
    「ああ、あれは、吾だ」
    つまり、「吾は、あれだった」の気付きと、発見だな。
    「oneness」と一本の人差し指を立てる。
    「これですね」と、また笑う。

    さてさて、現役・現職の時には、そのことをすっかりと忘れて生きる。
    つまり、周りの価値観と評価の中に曝されて、
    それどころではないことが現実だ。
    特に管理職になるとその責任とストレスで、気を休める間もないだろう。
    そうした激務の中でも、独りぽつんと一軒家の精神で、
    時には、こうして宇宙や大自然と向き合い、
    人生の師に会いに行き、その言葉から生き方の「意味」を学ぶ。
    そうした努力を怠らなかったら、
    その右手のはしの時代も独り「自分」らしく生きられたはすだ。

    しかし、私が知る限り、そうではない人が多いような気がする。
    それは、ひの人たちには、自分の言葉が感じられないからだった。
    「おっ、彼は本気で生きて来たな」
    「そうか、やっぱり彼は自分を捨てて、人の為に生きた人だな」
    「苦労人だな。挫折を乗り越えと来た人は、確かに違う」
    そう感じられる人と、私は何人と会えたのかの「問い」だった。

    つまり、現職で働きながらも、その自分になる「根っこ」だけは、
    ほそぼそとでもしっかりと培うような生き方をするべきなんだということだ。
    確かに、「長」になり、「名誉」をもらい、「表彰状」をいただいた。
    しかし、左手のはしの時代には、「それが、何?」の時代なんだ。
    誰もそんな過去のことには関心を持たないし、
    「へぇ、そんなに偉い人だったんだ」なんか、感じないものだった。
    役職・職名・地位・名誉。
    そんなもの、ただの張りぼて、造り物。
    その中に、その芯に、ちゃんとした「自分」の「根っこ」を育て来たか。
    そのことだけが、本来の生きるの「意味」だった。

    Sさんは、そのことを私に教えてくれる。
    それまでの生き方、考え方を83歳で転換した。「回心」した。
    これまでを捨てた。きっぱりと、生まれ変わった。
    しかし、彼は、現役時代、あの重い責務を全うしながら、
    深く深くで「自分」であることを忘れず、自分でありつづけ、学び続けて来た。
    そのことで自ら知らず知らずの内に自分の根が深まり、太く、細く、伸び続けた。
    現職の時代にしっかりと根を張ったことで、
    退職後の人生もまた、自分を貫き生きて来た。

    そして、今は、onenessの自分となって、飄々と生きている。
    もう騙されないし、もう安心だ。
    全てを委ねて、自分を捨てて、自分を生きる。
    「これが、生きると言うことの喜びだったな」と、日々、自分を楽しんで生きている。
    本当に、ここまで至りたいものだと、いつもいつも学ぶことばかりだった。

    大事なことは、日々、独りを楽しんで生きられること。
    そして、宇宙や大自然と向き合い、その中の1つとして生きられること。
    妻や子どものことを理解し、深く深く愛すること。
    自分がこうして生きていることを、心から感謝すること。
    そうした本来の自分に従うこと。

    「生きてるって、楽しいなぁ」と、
    Sさんは、生きていることの楽しさを味わっている。
    同じ生きることに悩み、苦しみ、辛く、哀しく、鬱になり、自死までする人もいる。
    しかし、生きることとは、本来、こんなに豊かで、明らかで、楽しいことなんだ。

    そのことを60代・70代・80代で味わうためには、
    やっぱりそれまでの現職・現役時代をどのように生きるかにかかっている。
    それは、Sさんと私との共通理解だった。
    上ばかり見ている人には、足元の自分が見えないものだ。
    周りの人ばかり見ている人には、やっぱりここにずっといる自分が見えない。
    まやかしや嘘やでっちあげや、そうだと思い込まされてきた価値観に縛られ、
    自分独りの価値観を試練や挫折の中からつかみ取ろうと努力しない人には、
    きっと年老いても、その生きている自分が自分でも見えなくなってしまうのだ。

    きっとSさんは、「本来の自分」を生きている実感があるから楽しい。
    しかし、その実感を味わって生きていない人たちに、
    時には、やはり迷子となり、彷徨ってばかりの生きることに、
    疲れてしまうこととなるだろう。
    同じ、生きるなのに、Sさんは「楽しく」
    ある人は「辛く、切なく」感じるのだろうか。

    そうやって考えると、人が「幸せに」生涯を生きるためには、
    私たちが社会や学校や教師たちから教えらてて来た価値観・生き方の転換期が、
    今、この時代に来たのではないのかの「問い」だった。

    つまり、Sさんのように生きる生き方を、
    子どもたちが青年たちが学でことなんだ。
    だから、私は、Sさんには、「今、ここを、書いてください」とお願いしている。

    ここに、Sさんから昨日いただいた本の中の言葉を幾つかそのままに記す。
    「持続可能な教育と文化」のなかでのボブ・ティーズディル氏の講演会の抜粋だ。

    「経験や洞察を分かち合うためには、昔の小さなコミュニティーでは、物語や歌
     アート、神話的なもの、精神的なもので表現をした」

    「そこでは、習得したものには全て意味がある。だから、子どもたちにはその意味が
     伝えられた」

    「学ぶことは、観察や模倣だった。参加し、実践し、分ち合い、交換しあう、
     生きることを通しての学びだった」

    「古きものと新しきものを同時に生かす。シンクレリズム」

    「正しい答えを見つけるよりも、正しい問いを見出すこと」

    「宇宙の基本的なつらなり(oneness) 万物の1つながり(conectedness)」

    「地球と人間相互の関係における相互関連性」

    「精神的なものをカリキュラムに織り込む」

    「スピリチュアリティーとは、人間が地球と宇宙とつながれているその「意味」に
     対する人間の探究である」

    「教師として私たちは、自身の受けた教育の古い思考様式や知識に
     からめとられている」

    「自然環境と調和をもった暮らし。相互に調和のある暮らし」

    「教師としての私たち自身が、みずからの思考と行動において、
     持続可能な生き方を十分に体現する」

    「学校には、持続可能な地峡をケアする最良の実践モデルになってもらいたい」

    「学校が、地球からもらっているものと同じものを地球にお返しする」

    「菜園・木を植える・肥料をつくる・リサイクルする・省エネ・自然発電」

    「地球を慈しむ行為を分かち合う暮らしを通した学びをする」

    樹を20年前に親子で植え、森を造ったSさんは、
    こうした生き方に共感して、実践をし続けた人だった。
    あのSさんの強靭でしなやかな身体は、日々のウォーキングのたまものだった。
    そして、Sさんのスピリチュアリティーは、
    こうした相互関連性の中で、自分を探究し続けたたまものでもあった。

    自分は、自分である今、ここで、探究しないで、
    いつその自分と出会おうというのであるのかの「問い」だった。

    昨日も美味しいお酒と楽しいお話をありがとうございました。

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