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  • from: クマドンさん

    2020年10月14日 07時14分05秒

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    前田さんのように生きたいものだ

    今朝、ラジオで指揮者の前田二生(S8年生まれ)の人の話を聴いて勇気をもらった。
    そうなんだな。
    そうやって生きて来た人がいるのだという話は、
    私の中で眠っているそういう人に対して、励ましの言葉となねものだ。
    「私は、こうやって生き抜きました」
    「私は、こうやって試練を乗り越え、夢をつかみました」
    「こんなどん底であっても、人間は這い上がることができるんですよ」だな。

    その話を聴くことで、私の中の人間としての何かのスイッチが入れられる。
    「そうか、そうなんだ」
    「よし、まだ私も遅くはないかもしれないな」
    「私だったら、それでは何をしようかな」
    つまり、その人の物語を、いつの間にか自分の人生とシンクロさせる。
    ここで、人生の「共振」が起こされる。
    ということは、その響きに応えるものを私がこの身体の中に持っていることだ。

    彼は、全く音楽とかかわりのない家庭で生まれた。
    戦中は、今の「エール」の時代だった。だから、クラッシック等は敵国の音曲だ。
    前後、進駐軍のためのラジオ放送を聴き、クラッシックを知った。
    ただただその1時間くらいの番組を聴き、感動だったそうだ。
    しかし、大学受験で法律を学ぶために受験したトップの大学を不合格だった。
    彼は、浪人を決め、お茶の水の予備校に通うことにした。
    ところが、ある楽器店の前に通ったら、一枚の張り紙だった。
    「ピアノお貸しします」
    つまり、お店のピアノをお金を出せば、弾かせてもらえるとのことだった。

    彼は、ピアノを弾いたことがない。
    曲どころか、ドレミすら、ピアノと向き合って音を出したこともなかった。
    しかし、あの進駐軍のためのラジオ放送だ。
    「ピアノを弾きたい」そのやむにやまれぬ思いの為に、
    彼は、ピアノを借りることにした。
    毎日、毎日、そこへ通った。
    その費用はどうしたか。それは予備校の入学費と学費だった。
    とにかく彼は、毎日毎日弾けもしないピアノの稽古にそこへ通った。

    その時、彼が購入した楽譜が、何とショパンのソナタ15番「雨だれの歌」。
    初心者のバイエルではない。高度な技法が必要な難曲に初めからの挑戦だった。
    ところが、彼は一年間で、この曲をマスターした。暗譜でも弾けた。
    翌年、彼は早稲田大学に合格した。
    すぐに、彼は混声合唱団に入団した。
    そこには、彼の大好きなピアノがあるからだった。

    しかし、「音楽で食えるなんて全く考えられない時代でした」と言うように、
    彼は、音楽を諦め、ある企業に就職した。
    そして、常に優秀な業績を上げ続けた彼は、
    その会社のトップまで登りつめようとしたとき、病に倒れた。
    寝たきりとなってしまった彼は、ある意味でこれは人生の転機なのだと悟った。
    それが40代半ばだと言う。
    その企業の社長は、彼の有能を惜しみ、ある工場の名前だけの社長としてくれた。
    寝たきりで何もしなくても社長としての報酬は入って来たそうだ。

    彼は、仕事に復帰して、1つの工場を拡大して5つの工場までに発展させた。
    さすがな手腕、やり手の企業家だった。
    しかし、かれは、すっぱりとその仕事を捨てた。

    しかし、いつまでもこうした生活を続けることはない。
    そこで、彼なのだ。
    「ウィーンへ行こう。本当にやりたかった音楽の道に行こう。指揮者になろう」
    すごいことだ。彼は、すぐその夢に向かって行動を起こした。
    飛行機でウィーンへ行き、日本と往復を繰り返しながら、指揮者の勉強を続けた。
    そこで、世界的な指揮者のギュンター・レーマン。
    ウィーン歌劇場の常任指揮者に師事をした。
    すると、奇跡のようなレッスンを受けられた。
    歌劇場で実際にウィーン・フィルや世界的な歌手たちに、
    師が厳しく音楽を教える姿を、その横で観ることができたのだった。
    楽団員や歌手からの辛辣なクレームをはねのけて、
    厳しく自らの目指す音楽を創る師の指揮者としての姿だった。

    ある年に、そうやって研鑽をつむ日本人の彼が認められた。
    ウィーン学友教会のフェスで、指揮をしないかの話だった。
    とにかく引き受け、夢中で指揮をし、喝采を浴びた。
    あの楽器店で、弾けないピアノで音を出していたその青年がだ。

    彼は、音楽の街ウイーンで認められ、「マエストロ―」と呼ばれる存在となった。
    学友教会の入口の大理石に刻まれた50名の中の、
    一番最後には日本人として初めて彼の名前が刻まれている。
    あの、ピアノすら弾けなかった彼が、世界的な指揮者としてウイーンで認められた。

    私は、この話を聴いて、これは、たんなるサクセスストーリーではないと感じた。
    何だか彼は、いつも無心で、無欲なんだ。
    その身体の、その心の求めるままに、彼は生きた。
    すると、彼が生きて行くことへの助けが現われる。
    彼は、ただ、それに、静かに従った。

    一つ目の企業家としての生き方もそうだった。
    病に倒れ、長期間仕事から離脱した。
    社会からはいらないと言われても仕方ない状況なのに、
    寝たきりの社長職だ。
    回復したらその恩返しに、会社を大企業にまで成長させた。
    実業家としても一流の人。

    なのに、「ウイーンへ行こう」と、全てを捨てる。
    また、無にかえる。無心になる。その好きなことにだけ打ち込んで行く。
    そこで、一流の師と出会う。
    その学び方がいい。
    それは、身体から身体だ。口伝だな。本物は師の姿形から写されるもの。
    その人になるためには、その人の傍らにいつも居て、その人を見て、感ずる。
    そんな幸運を彼は神から頂いた。

    そこでの彼の研鑚・修業は、並々ならぬ努力だった。
    その努力する姿を認めた学友教会は、彼を指揮者として招いてくれた。
    舞台は向こうから用意してくれた。
    あとはその役を思い切り、死んだ気になって演ずることだ。

    これが、人生の不思議不思議だ。
    私は、その不思議を信じている。
    だから、「これからが、おもっしぇなぁ」とSさんと語る。
    本当にこれからの人生に何が待っているか分からないからだ。
    この歳になると、その予想もつかない人生の一つ一つが感謝と感動と感じられる。
    「向こうから来たら、やればいい」
    つのり、欲も無く、闘いも無く、無心で、自然に、あるがまま。
    しかし、人生これだから、楽しく感じる。

    つまり、前田さんのように、向こうからやってきたものが、
    その人にとっての本物の生きる意味ある人生となるのだと、私は考えた。
    実は、私もそうだからだ。

    「ここまで、生きて来れて、本当によかった」
    「あれも、これも、みんな繋がり、私の物語となっている」
    「と言うことは、これからどんな物語と出会えることか」
    「期待しても、いい、と私は思う」
    そんな話をSさんとよくす。

    何だか、この前田さんの話は、
    そうした意味で、私の心の励ましと勇気となってくれた。
    前田さんにはなれないが、
    私も、前田さんのように生きたいと、今、私は、何だかわくわくしている。

    人生は、二度あるものだ。二生だな。

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