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  • from: クマドンさん

    2020年10月24日 11時47分40秒

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    やっと思えた

    今朝、突然、腰にピリッと電流が走った。
    びっくり腰だった。
    普通の何気ないしゃがむと言う動作ができない。
    前かがみに何かを取ろうとすると、
    その前にいくつかの予防の動作が必要だった。
    どいしていつもは、すっと床に在るものをとれていたのか、
    そんなことが逆に不思議になった。
    こうして、今度は、自分の腰と向き合っている。

    痛みがあることで、そこは私にその存在を主張する。
    つまり、おろそかにするな。当たり前だと思うな。
    もっともっと大事にしろという、ご命令だ。
    だから、私は、その突然の変化を受け入れた。
    とにかく、事実は、事実として受け入れる。
    すると、余計な腹立ちや、悩みや、後悔をもたなくてすむからだ。

    ある人が、突然、固い石になった。
    そのことは、本人には全く自覚はないと思う。
    それが、突然だったので、私の方が驚いた。
    「本で読んだこと」「頭で考えたこと」
    それは、その人の心からの拒否反応だった。
    しかし、拒否する、否定すると言うことは、
    「柔らかくない」ということの1つの表れだった。

    私にもそれはある。
    「ああ、固い石の人だなぁ」と感ずる。
    しかし、そのままにする。スルーする。ほっておく。
    なのにそれをわざわざ拒否したりしたら、
    それは、固い石になってしまっている証拠ではないだろうか。

    とにかく、気持ちよく、楽しく、日々を生きるだけだ。
    小千谷のSさんの言葉ではないが「楽しくて、楽しくて、しかたねぇて」だ。
    生きていること。そこで、そうやって息をしていること。歩くこと。感ずること。
    その「今、ここ、自分」に立ち止まっていると、
    確かに、「楽しさ」しか感じられないものだった。

    昨日のことなど、どこにもないはず。
    あるというなら、持って来てみなさいだな。
    なくなったもの。消えたもの。もうここにはないもの。
    そのことをわざわざ思い出して、取り出して、悩むこともない、ない。
    そんなしてもしなくてもいいことで、心を重く虚しくすることは、
    今、ここ、自分で感じられる楽しさを考えたら、もったいない話だった。

    明日のことは、どうかだな。
    突然、人間には何が起るか分からない。
    今夜、私の心臓がピタリと止まることもあるだろう。
    また、自動車事故で、この世の人でなくなっていることもあるだろう。
    明日は、来るのか。
    来たら、それは、明日ではなく、今日なのではないだろうか。
    明日もまた、どこにも存在しない仮想世界だった。
    それなのに、溜息と虚しさだ。

    今日だけ、生きていればそれでいい。
    今日、楽しく生きられれば、それだけで十分のありがたさだ。
    そう思うためには、今日、自分の身に起きた出来事は、
    全て「意味」のあることとして、「受用」することだった。

    「あっ、腰が痛い」
    私は、今朝9時からのヨガのレッスンを休むことにした。
    数年前の私なら、
    「これぐらいなんでもない。動けばかえって治りが早い」と、
    きっと車でヨガに向かったことと思う。
    でも、今は、辞めた。
    引き返す勇気とでも言うのか、やらないという選択肢を選ぶ決断とでも言うのか、
    つまり、「やる」決断から、「やらない」決断へのシフト替え。
    これって、63歳の私には、大きな生き方の養生訓となっている。

    「無理」をしない。
    「やらない」ことを選ぶ。

    そうした心のブレーキが、少しずつ組み立てられて来ている感じがする。

    相手のことで、思い悩むことも捨てた。
    「どうして、返事をくれないのだろう」
    「私のことを嫌っているのだろうか」
    「また余計なことをして、迷惑をかけているのではないのか」
    「ああ、固い石は、いつまでも固い石のままなのか」と、悩むこともある。

    しかし、この相手の気持ちも、まさに仮想世界だ。
    私が、ここで悩み考えたことは、
    コントローラーとして相手の気持ちや考えとは、ダイレクトには伝わらない。
    ここで、私がもんもんとしていても、
    そのこと自体、相手にとっては、ないことと同然なんだ。

    だから、「受容」する。
    ただ、私がそうしたいから、そうやりたいから、それをしただけ。
    そのことでのリスポンスは、期待することはできない。
    また、もし、期待していたのなら、愚かなことでもある。
    この地球の裏側で誰かが失恋したとしても、
    私の生活には、さざ波すらも届かない。
    人と人とは、そういうものなんだ。
    人と人とには、「間」があるものだ。
    「一体」ではない。「違った存在」同志としての「間合い」が確かに存在している。

    だから、「独り」なんだと、思い。何も期待せずに、自分を楽しむ。
    その「間」を自分の「独り」を守るための利点として考えて、
    独りで生きる。
    そして、同じ独りである人と、出会って、語り合えればそでいい。
    独りが寂しい。独りが辛い。のではなく。
    みんな誰でも独りなんだから、その独りをいかに生きて行くか、
    その問いと試行錯誤と、何よりも「独りを楽しむ」味わいとを、
    もっていれば、この63歳は、平穏に、平安に生きていけるとの気付きだった。

    だから、まず、「健康第一」身体の声なんだ。
    そして、心の病にならぬためには、無駄なことはちゃんと無駄だと自覚し、
    独りで生きることの楽しさを見出すことだ。
    そうやって、深くなればなるだけ、きっといつか、
    その深い独りを生きている友と出会う。

    そういうものなにんだなぁと、63歳。やっと思えた。

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