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  • from: クマドンさん

    2020年10月28日 07時14分20秒

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    ここが舞台なんだ

    昨日から、ウォーキングを再開した。
    気持ちよい移設になり、汗もかかずに、
    爽やかな気分で歩けることが何よりも嬉しいことだ。

    歩きながら、リーデングの台詞のコピーを読んでいる。
    その台詞を覚えるためだった。
    今回は抜粋であるから、その量は大したことはなかった。
    しかし、なかなか濃すぎる台詞だ。

    「あの恐ろしいことをしでかしてしまったメディアめは・・・」
    「この手で、お前を八つ裂きにしてくれる」
    そんな台詞を、黄色いタオルを被り、サングラスの私が、
    本気に役になって声を出して演じながら歩いている。
    変なやつだと、車で通る人たちは、思っていることと思われる。

    しかし、歳なのか、覚えが悪くなったような気がしている。
    「しでかす」とか、「免れる」とか、
    使い慣れていない台詞が、どうしても頭に入らない。
    覚えることは、脳で記憶するという簡単なことではないらしい。
    何十回と言いながらも、その次にもやっぱりその言葉が出てこない。
    しかし、焦らず、くさらず、忘れたのなら、紙を見てやり直すだけ。
    そう考えると、楽になる。

    「メディア」の中のアルゴ船の英雄イアソンは、
    なかなか恐ろしい男だった。
    その残忍さ。復讐に燃える怒り。殺そうと言う憎しみ。
    それを全部この台詞にぶち込む。
    そう考えると、この「しでかす」一つでも、
    どう言ったらよいのかの「問い」となる。

    つまり、譜面に書かれたオタマジャクシを、
    どうやって歌とするか、楽器で演奏するかだな。
    つまり、一つの音をどう表現するか。
    それは、弱くか、強くか、優しくか、きつくか。
    ここに様々な形容詞が浮かんでは、消える。

    私が居るのではなく、イアソンがメディアを殺しに来たのである。
    そのメディアがここに居なければ、何をやっても嘘になる。
    そうやって考えると、語るその言葉の表現とは、
    とてもとても無神経でいられないものとなるのではないだろうか。

    「おはよう」をどんな表現で言っているか。
    実は、そうした日頃の会話・対話の言葉の表現を、
    私は、あまりにも無意識で行い過ぎているのではないのかの「問い」だった。
    その言葉に、気持ちがあるのか。
    「その言葉に、愛はあるのか」というCMがあったが、
    よくよく考えたら、深い言葉なんだとの自覚だった。

    言葉の先に、気持ちはあるのか。
    または、その言葉を通して伝えたい気持ちや想いとは、何なんだ。
    そして、それを伝えるための効果的な表現を選んでいるのかと。
    そう問われると、「うーーーーん」と唸らざるを得ない私だった。
    そうだよな、その言葉でどんな気持ちや想いが伝わっているのだろうか。
    この言葉の言い方は、それを伝えるためにベターなのか。
    ちゃんとこの言葉で、相手の心には届いているのか。

    そうやって考えたら、確かに、日常会話は舞台の台詞ではないが、
    やはり、気持ちや想いを伝えるためには、
    もっともっとこうしたものの言い方の吟味や探究が必要なのではないだろうか。
    言葉をおざなりにしない。
    言葉の言い方、表現の仕方を大事にする。
    そして、その言葉を、台詞のようにして言ってみる。稽古する。
    ああ、このことを、私は、すっかりと忘れていたなあ。
    いや、気付いてもいなかったなぁだった。

    「ありがとう」その一言が、深くなるのも、浅くなるのも、
    やっぱりその瞬間の気持ちであり、思い何だな。
    そのことを、この歩きながらの台詞の稽古は教えてくれた。
    日常会話で使う言葉の吟味と探究。
    その稽古も大事なこととして意識することだった。

    それから、私は、歩きながら、豹変している。
    というか、イアソンも、私なんだな。
    つまり、私は、これが私だと限定できないのが私なんだとの気付きだった。
    私は、「こういう人なんだ」と、言うのは、
    私だけの勝手な思い込み、自己理解に過ぎないかもしれない。
    私は、あの残忍で傲慢で単純沸騰男のイアソンではないと思っているのは、
    それは、私だけの間違いで、
    本当は、私は、イアソンであることもできる私なのではないのかの気付きだ。

    彼は、メディアにこてんぱんに踏みにじられ、どん底に落とされる。
    その惨めで、哀れで、どうにもならぬ無力なぼろきれの男ともなる。
    そのイアソンも、私なんだな。
    その時の絶望の闇からの叫び。雄叫び。悲痛なる嘆き。
    それを言うことは、ある意味、私にとっては快感であり、喜びでもあった。

    本当は、人は、自分が思いこんでいるその自分だけではないのではないのか。
    自分の中には、このイディアも居て、イアソンも居る。
    ただ、その二人が登場する環境で、舞台でなかっただけの話ではなかったのか。
    私は、イアソンを演じながら、この男が大好きになっていた。
    というか、一体なんだな。
    イアソンが語るのではなく、私が語るんだ。
    それは、私の中のイアソンと言うよりか、私自身なんだと感じている。

    台詞が練れるとは、そうやって自分の心と身体に稽古によって練り込まれ、
    言っているのか、言わされているのか、言いたいのか、言うのか、
    その言葉そのものに、成ることの快感、そんな感じかな。
    不思議だなぁと、そんな時、いつも思う。
    この台詞が、楽しい。味わい深い。ある感慨をもって一つになる。
    そのことを、S先生は、私に教えようとする。

    それは、豹変ではない。
    新たなる自己理解の領域に入ったということだ。
    だから、イアソンは、私になった。
    でも、この私は、やっぱり、この私のままでいる。
    不思議なことだが、妻から見る私。長男が見る私。次男が見る私。
    みんな違っている私だ。
    私もそうだ。
    日によって私のことを対する見方・感じ方は、変わっている。

    それでは、この私を、私てして見ている私とは、どんな私なんだ。
    私が、私のことを対象として、ある意味客観として判断しているこの私。
    その私は、どこのどういう私のことなんだ。
    不思議だが、そうやって考えると、
    私は、私が考える私や、妻や子どもたちが見ている私や、
    友人たちにそう思われている私や、職場でかかわっている人たちにとっての私。
    本当は、いろいろな違った役の私が居て、
    私は、私を演じながら、日常を生きているのではないのか、私?

    その多様なる役としての私と、このリーデングでの経験は出会わせてくれた。
    「ギリシャ悲劇は、神の視点で書かれている」と笹部さんが言っていた。
    つまり、この私を私としているのは、私として私を見つめる神の視点。
    つまり、私は、私としての多様な役を、日々、役者として演ずることなんだ。
    そう考えると、生きることが、少し楽になるような気がする。
    それは、私が私から与えられた役なんだ。
    それは、私であって、私ではないかもしれない私なんだ。
    その私を、私は、無意識に演ずることが生活することだと信じていたんだ。

    しかし、イアソンのように与えられた役であるのなら、
    その役を日々気持ちよく演じよう。
    そして、その気持ちよさとは、神の視点の私が心地よいから、
    私自身が無意識に感じられる快感であるのかもしれない。
    「どうしてこの私であるのか」
    「どうしてこの私でなくてはいけないのか」
    本当は、そうではなかったはずの私を、私が演じ続けているとしたら、
    それは、私を私として生きていることになるのかの「問い」だった。

    たった、その数行の台詞を歩きながら覚えようとすることで、
    こんなこともで深く深く探究できた。
    それが、役者の面白さ。
    「あなたの中にメディアはいるはよね」と、S先生。
    「いません。私は、こんな女では絶対ありません」
    そう言ってしまったら、それまでの人。
    きっとその人は、自分だと信じ込まされてきたその人を60年以上演じて来た人。
    しかし、本当は、その人の中にもメディアは生きている。
    ただ、そのことが無意識に蓋をされているに過ぎないと、私は感ずる。

    「心は望む 希望を愛を、勇気をおくれ 素敵に言葉を おいらにおくれ」

    「言葉があればどこへも行ける 世界の葉て 冒険の旅 絶望の頂き 悲嘆の淵
     悲しみはみんなのもの 苦しみはみんなのもの」

                       シェークスピア 
    ここに舞台がある。
    ここは私の人生そのもの。
    そんな不思議を台詞を言いながら味わっている。
     

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