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  • from: クマドンさん

    2020年11月12日 06時53分52秒

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    健康第一とは、どんな生き方なのか

    63歳を、世間では何と言うのだろうか。
    高齢者ではないと思う。
    老人でもないだろう。
    今の同じ年や少し上の世代は、まだバリバリに仕事をしている。
    つまり、呼び方はその歳への認識でもある。
    私たちを、世間の人たちは何と読んでいるのかと、興味があるなぁ。

    私個人は、変わりなく歳をとっているような気がする。
    親しい友にメールを出す時、
    「健康第一」と書くようになった。
    健康であるから。この朝をここで迎えられる。
    本日の予定を立てられる。
    仕事に行く時刻になれば、歩いて3キロの職場に向かう。
    そこでは、腰の痛みを抱えながら、5時間の仕事をしている。
    本日は、その仕事の後に「カンポス」で朝日山の熱燗を呑む。
    そして、Hさんと、またわいわいと語り合ってのカウンターだ。

    やっぱりこれって、健康だからできるみとだ。
    しかし、この健康とは何だろうと、63歳は考える。

    そうでなかった時のことを思い出せば、
    逆に健康であるとはどういうことか、よく分かるようだ。
    まず、「痛み」が無いことだ。
    確かに腰の痛み、胃腸の不全感はあるが、あの激しい痛みは今は、ない。
    自転車事故での肋骨と膝の激痛が、今は、昔のように感じられる。

    「何でもおいしく食べられる」こと。
    とにかく、食べられない時があり、食べてはいけない時があった。
    生還したら「あき乃」の天ざるを食べる。
    そんなことをベットの上で夢見ていたことが私にあった。
    その時、見舞客が羨ましくて、羨ましくてだったな。
    この人たちは、病院を出たら、蕎麦屋でもラーメン屋でもイタリアンでも、
    好きな店に入って食事ができる人だ。
    やはり、健康と食事とは直結しているものである。

    それから、「移動」できることだ。
    私は、椎間板ヘルニアで坐骨神経を患ったことがある。
    少しでも足を動かすと、何万ボルトの電気が走る。
    その痛みに耐えかねて、大声で寝たまま怒鳴っていたものだ。
    歩く。好きな場所に移動する。散歩する。
    こんなことを、その時は、やっぱり夢見ていたな。
    歩きたいが、歩くことができない。そのもどかしさと、哀しさだった。

    「動く・できる」ということも大事なことだ。
    こうして目が見えるから、朝日を感じ、パソコンの画面を見て、キーボードを打てる。
    今、エアコンの静かな音に、雀の餌を求める鳴き声だ。
    頭で思考することができるから、
    この文を頭のトレーニングのつもりで考え、書いている。
    指がまだ自由に動くので、目で追って、パソコンのキーボードを打ち続けられる。
    こうして考えたら、「動くこと」「できること」だらけではないだろうか。

    「生きている」ということもそうだ。
    確かに、病気になっても生きていられる。
    しかし、私の友は、56歳での突然死だった。
    朝、奥さんが起こしに行ったら、既に息をせず、亡くなっていたということだった。
    私は、今朝は、起きられた。息をしている。腹も減っている。心臓が動いている。
    副交感神経のおかげだとのことだった。
    私の自然体としてのこの身体は、
    生物としての命を維持するために、一刻も休まずに働いてくれている。
    それは、点滴で繋がれ、ドレーンを何本も腹から出している状況でも、
    同じではないかとは思う。
    しかし、全く違うのだ。
    生き残ろうと精一杯の身体と、生きることが自然な身体とは、
    その自然体としての働き方が、全く違うことは、経験した者だけが分かることだ。

    私は、朝の祈りで、本当に当たり前のことを一つ一つ感謝することがある。
    「今朝も、見えることを感謝します」
    「音が聴こえることを感謝します」
    「こうして朝を迎えられたことを感謝します」だな。
    一つ一つ感謝していたら、全てのことは、感謝すべきことだったと気付くはずだ。
    何故なら、この身体の何一つも、
    自分の意識や意志で、その変化を止められるものはないからだ。

    こうして今、突然に胸の差し込むような痛みに襲われたとする。
    「何だ、これは」の驚きと恐怖だな。
    「だめだ、痛みよ去れ」と、叫んでも、その痛みはきっと去らず、さらに増す。
    もう息することも苦しくて、ここに倒れ込む。
    声も出せないので、妻に助けを求めることもできない。
    そうした時、はっと気付くんだな。
    自分自身とは、生物体であり、自然と同じ生き物だっんだと。

    私は、この生物としての生命体としての身体を生きている人なんだ。
    その自覚があるか、どうか。
    ここで、その人の身体の状況は大きく変化させられると私は考えている。
    つまり、身体のことを労わって生きているか。
    身体の小さな変化・予兆を感じつつ生きているか。
    そして、その予兆を感じたら、充分な休養をとり、対処しているか。
    それが、「身体の声を聴く」ことだと、私は思っている。

    長生きできるかどうか。
    癌になるかどうか。。
    難病となり不治の身体となるかどうか。
    そのことは、ある意味「定め」である。
    そのことは、身体が決めること。
    つまり、こうした身体の変化や病に対しては、私はきっと無力なんだな。

    しかし、そのことは、この庭を見ていると腑に落ちることだ。
    みんな変化して、あの夏の盛りを今は昔、すっかりと冬枯れの庭となっている。
    樹々たちは、樹たるべき冬に備えて準備しているはずだ。
    それを、ただ、受け入れる。
    私も、そうありたい。
    じたばたしない。来ることは当たり前。それに今から備えておくだけ。

    そこで、フランクルだな。
    「クマさんは、どう生きていますか」
    「クマさんは、より善く生きようと努力していますか」
    「この身体にはいつか終わりが来ます。
     でも、きっと人はそれが終わりではありません」
    だから、今、ここを、大事にして生きていますかの「問い」だった。

    身体は、私が私として生きるために、ここにこうして生きてくれているものだ。
    私は、ほんの一時、この世で、この身体に宿って顕れた存在にしかすぎない。
    しかし、この身体を失ってしまったら、
    私は、私であっても、私とは言えない私としてしか存在できない。
    だから、一時であったとしても、
    私でいられるこの身体としての私のことを、
    大事に、大事にすべきなんだと、今は、思っている。

    「精神も健康である」
    人としていかに生きるかを考え、
    どうしたら幸せな人生を送れるのかと思案する時、
    その思考する精神もまた健康第一であってほしいものだと、私は考える。
    今日も、こうして、考えることができた。
    今日も、こうして自分自身の生き方を少しだけでも明らかにできた。
    今日も、少し生きることを学ばれた。
    それも、感謝だった。

    私は、今朝、ああこの身体は自然なんだと気付いた。
    そして、その身体を理解して、その身体を労わろうとする私をも見た。
    ああ、この私は、精神としての私なんだとの気付きだった。

    身体の健康。
    精神の健康。
    その二つは不可分で一体、同時進行、御同行だ。

    今、お日様が昇ろうとしている。
    私は、それを美しいなぁと感じている。

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