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  • from: クマドンさん

    2020年11月26日 07時17分55秒

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    幸せを感ずる人とは

    人は、どうすれば幸せを感じて生きられるのだろうか。

    そんな問いを、小千谷のSさんと話していた。
    考えてみたら、私たちは、幸せになりたいと、考えて暮らしているのだろうか。
    それは、当たり前の望みだし、そうなりたいとみなが願っていることだ。
    では、自分にとっての幸せってどんなことなのか、追究して生きているのかだな。

    私は、今、幸せに生きている。
    それは、日々の生活の中で感ずることだ。
    平凡な毎日を送っている。
    今週から行かねばならない仕事からの解放だった。
    仕事を通してのストレスも負荷も感じなくていい状況だ。
    そうやって、生きられることは、やっぱり幸せだと思っている。

    昨日、木戸の銭湯「金の湯」に行った。
    午後3時。男湯は爺さたちで、満員な状態だった。
    この人たちは、この時刻に、
    ここで湯に浸かることを幸せと考えている人たちだ。
    だから、友達もここに居る。
    「おっ、久しぶり」と、声をかける。
    じっと黙って、露天風呂の横の椅子に腰かけて佇む爺さも居る。
    みんな人生の荒波、疾風怒濤の旅を経て来た人たちだ。
    今、ここで、銭湯に入れることを、
    きっと私も、その爺さたちの歳になったら、幸せと感ずるだろう。

    庭には、幸せを感じさせるものがある。
    それは、真夜中の自然の中を散策するSさんにも、分かる幸せだ。
    私は、プランタに植えたビオラたちが元気に育つ姿を見ると、
    何だか私まで幸せに感じる。
    庭の樹木はそれなりに冬に向かっているが、
    その自然の成り行き、佇まいだけでも、
    何だか私の心と魂を豊かにしてくれ、幸せを感ずる。

    しかし、この幸せ感は、あの都市や街の日々の仕事や暮らしとは、
    どうも違った幸せ感だとも感じている。
    私たちは、森の中で生きて来た祖先をもっている。
    その祖先の知恵や願いや想いや祈りが、
    きっと私たちの魂には刻まれていると考える。
    それは、無意識の領域の中に大切に隠されているものであるとは思うが、
    それは、目には見えないが、無くなったのではなく、ここにあるものだ。

    そこで、縄文の人たちが感じた、幸せ感を、
    私たちは、今でも、魂のどこかで存続させ、感じているのではないだろうか。
    こんな小さな庭を観ていても、心がふっと落ち着く。
    ここには、いつまでも居られるような気がする。
    そして、自然の中に居ると、独りは苦にはならない。
    独りでも何だか充実した楽しさを感ずる。

    それから、「生きる」ことへの気付きが多い。
    その草木の枯れて行く姿から、
    私は、教えられることが多い。
    それは、終わりであり。終い方であり。再生への準備でもある。
    命は、絶対に繋がり、連続するものだ。
    そのプロセスのほんの一時を、私は生きている。

    ならば、その自然のあるがままの定めを了解する。
    私も、自然の1つなのだから、そうやって生きることが定めだった。
    そう考えると、私の生きるの師匠は、自然の中にありだ。
    ここに、師が在る。
    ただし、そのこを感じ、このことを見つめ、改めて学べる人はだ。

    人の中に居ると、寂しさを感ずる。
    孤独を感ずるのは、人が造った社会の中でだ。
    そこで、心を病む人たちが多くいる。
    私も、その独りだった。
    では、自然の中では、自由を感じ、喜びを感ずる私が、
    どうして、人の中ではストレスを感じ、心の重荷を感じ、
    ここには長居をしたくないと思うのか。
    それは、そこでは、人の考え方や価値観が支配する世の中となるからだ。

    確かに、人は、社会の中で生かされなければ、
    独りでは絶対に生きられない弱い存在である。
    社会で生きることで、相互扶助の関係で、
    どれだけ助けられているか分からない。
    平安・鎌倉時代の農民や町人の生き方を考えたら、
    どんなに悲惨で不安な日々を送ったことと考えられる。
    だから、こうして社会を発展させ、進化させてきた。

    しかし、魂は、やっぱり自然を父とし、母としているのではないだろうか。
    人間が創り出した社会は、バベルの塔だ。
    きっと権力者が現われ、金持ちが現われ、独裁者が現われる。
    競争原理・消費社会・資本主義社会。
    この原理から導かれることは、勝者と敗者の歴史だと、誰かが言った。
    つまり、競争があれば、殺生与奪もあり、戦争は避けられない事実なんだと。

    例え、私が所属している社会は、ちっぽけなそれであったとしても、
    この「俺が。俺が」の固い石たちとのかかわりは、避けられない事実でもある。
    ここに、生きて、頂点を目指すことが、人の幸せなのかの問いだな。

    そのためにどれだけ人は、自然環境を破壊して生きていることか。
    経済活動を当たり前のように優先する資本家と政治家たち。
    その人たちが編み出した価値観に、私たちは騙され、翻弄され続けている。

    本当の個の幸せとは、何だろう。
    その問い直しが、今は、求められる時代になったのではないだろうか。
    実は、Sさんと共感していることは、
    この「縄文に還れ」と言うことだった。
    私たちの祖先が自然と一体となり、その自然の恵みで生きていた頃、
    私たちは、日々を幸せに暮らしたのでないだろうか。
    それは、飢えや、病や、突然の死もあったことだろう。
    しかし、現代の人たちの心の病となる原因は、
    その森の中の集団社会には、少なかったのではないだろうか。

    Sさんが、散策の途中で信濃川の大工事を見つめている。
    大河の前には、人間はまさにちっぽけな蟻たちだ。
    それでも、どっこいその大河の流れを何年もかけて変えようとしている。
    しかし、大水が出たらどうだろう。
    自然は、あるようにあり続けるものだ。
    Sさんが、散策でほっとするのは、
    その自然からの眼差し、呼びかけのおかげさまではないだろうか。
    Sさんは、その感性にスイッチが入った人だ。

    今、ヒヨドリが鳴いていた。
    つがいのヒヨドリたちが、この庭に姿を見せる寒い季節がやって来た。
    このヒヨドリも、私の大事な友である。
    では、このヒヨドリが何と言っているか。
    それを、何とか理解できる感性を、本当は人はみんな持っているはずだ。
    しかし、都会や街で生まれてからずっと暮らしている人たちには、
    そのスイッチが入る機会が無かったのかも知れない。

    言葉とは、実は、自然からの声なんだ。
    「葉が言う。語る」それが、本来の言葉の意味だと私は考える。
    つまり、言葉とは、その見えないものや、聴こえない声を感じ取り、
    それを理解して、「こうなんだね」と、語れる人にだけ与えられるもの。
    本来は、人と人との会話や情報の伝達のために発明されたもののように感ずるが、
    本当は、自然の想いや願いや祈りを理解するために、
    人間が創り出したものではないだろうか。

    説明の言葉は、もういいかな。
    感じた言葉を、今は大事に使いたい。
    その言葉こそ、自然の命と一体となり、
    自然の命にも通ずる言葉ではないだろうか。

    私は、幸せに生きたいのなら、
    まず、この自然の命たちが話す言葉を理解して、身に着け、
    その言葉で「生きる意味」を思考することが大切なことだと考えている。

    そして、感ずることだ。
    ただ、味わうことだ。
    そのこと自体を歓びとする。
    すると、何でもない日々の生活に感謝しつつ生きられる人となれるはず。
    その人になれたら、きっと、その人が感ずることが、「幸せ」なのだ。

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