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  • from: クマドンさん

    2020年11月28日 07時34分09秒

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    長くなりすぎ

    昨日、ある人から「FB超長すぎ。最後まで読めない」と、言われた。
    確かにそうだった。
    朝、ラジオ深夜便を聴いた後、1時間近く使って、書いている。
    実は、誰に伝えたいと言うことでなく、
    本当に、私が私に送っている手紙のつもりで書いているだけ。
    だから、読んでくれる人も少ない。
    そのことは、それでいいと、思うから、書けると思う。

    書く人でありたい。
    それは、いつかまた脚本を書いてみたいと思うからだ。
    だから、書くことには、書くためのトレーニングが求められる。
    毎日、ヨガを続けて2年と半年。
    やっぱりそれなりに身体が変わり、内臓系統も変化した。
    身体は、自分がしたようになるものだ。
    それは、書くと言うことも同じだと私は思う。

    何も考えないで書いている。
    それは、それなりに考えたことがここに書き記されるのだが、
    やっぱりどう書こうかとか、書き方を変えようとかは思わない。
    いつの間にかライターマシンとなり、
    ただ、思いつくまま徒然に書いている。
    でも、そのことが私の書く喜びを刺激する。

    例えば、独りでぽつねんと縁側で暮らす。
    話し相手は、ヒヨドリとツアブキの花。
    それでも、ぼーっとそこには、居られる。
    それは、きっと十分にここで語ったおかげなのかも知れない。

    FBで1時間、考えながらのライターだった。
    そこで、絞り出したために、最近は、ここでの内容がどうもなんだな。
    それと、やっぱり本をしっかりと読んでいない。
    深く深くで感動していない。
    すると、どうも言葉がやっぱり活き活きとしない。

    言葉とは、あるものではなく、見つけるものだ。
    感じなければ、それを顕す言葉とは出会えない。
    それが書くと言うことの気付きと発見の喜びとなる。
    書くとは、自分を分かるとということだ。
    とはいいながら、仕事をしない今週は、日々のほほんと生きている。

    昨日、Sさんが、病院に行く前に、電話をくれた。
    いつもの11時に、電話をできないから、朝、電話をくれた。
    私たちは、いつも感じたことを語り合った。
    そんな「言葉」が何よりものケアになると、彼が話していた。
    医者からもらった薬が身体に合わずにひどいことになった。
    薬は、この身体の不調をケアできなかった。
    尚更、彼に苦痛を与えた。
    そのことを味わい、彼は、薬を減らしてもらいたいと医者に言った。

    医療ができるケアは、限られていると私は思う。
    長期入院の経験から、そのことを感じている。
    痛み止めの点滴をしても、断続的に痛みは続いた。
    いつこの身体は治ってくれるのか、
    そんなことは、天のみぞ知ることだ。
    その身体の状況を見ながら、確かに医者は適切な処理をしてくれる。
    看護師さんは、私の身体を心配し、優しく声をかけてくれた。

    そのケアも、大切なのだが、
    それでけでは、身体が蘇る力を発揮できないような気がした。
    それは、私自身の心のケアができていないからだ。
    私が、回復する希望を失っていたら。
    私が、回復までの長い時間に焦りを感じていたら。
    きっと、この身体の自然な治癒力が落ちたのだと思う。

    そんな時だ、私は、フランクルの言葉に救われた。
    まさに、病室のベットの上は、収容所そのものだった。
    私は、身体を動かすことが不自由なために、
    一日、そのベッドの上だけで過ごさなければならなかった。
    その時だ、フランクルの言葉に出会った。

    命からの私自身に対する「問い」だった。
    「あなたは、より善く生きようと努力していますか」だった。
    そして、その意味を考えて、その生きる意味を生きることです。
    だから、どん底にあった私にとっては、
    その言葉は、確かに光であった。

    私は、生きよう。再び、あの生活に戻ろう。生還しようと思った。
    すると、何かの力が働き、
    不思議なことに、焦る気持ちではなく、身体に任せようと、
    ゆっくりと休養することを自分の生活の最優先とした。
    本当にその狭いカーテンで仕切られた場所だけが世界だった。
    でも、そうであるからこそ、私は、何か希望を感じて生きていた。

    その力は、やっぱり、考えることと、書くこととから生まれた力だった。
    私は、本を読み、言葉を探った。
    そして、赤ボールペンで、ずっとずっと言葉の横にラインを付けた。
    時には、立ち止まって、その言葉の意味を味わった。
    そして、その言葉によって気付いたことを、余白にメモをした。
    それから、食堂まで点滴を引きつつ歩けるようになったら、
    そこで、コーヒーを飲みながら、この「親父たちよ」を書き続けた。
    ガラ携から、Tさんに転送し、彼がこのネットにアップしてくれた。

    とにかく、書いた。書いた。今も、書いている。
    どうして書き続けているのか、自分でも分からない。
    こんな誰も読まない長文を書き続ける意味はあるのかと、
    ある人たちは、笑っていることだろう。
    でも、書きたいから、書いている。

    歌う人は、歌い続ける。
    演奏する人は、演奏し続ける。
    踊る人は、踊り続ける。
    書く人は、書き続ける。

    それが、その人の特性であり、この世における使命なんだ。

    では、一体何を書き現そうとしているのだろうか。
    そのことを探究するために、きっと書き続けているのではないだろうか。

    Sさんが言った。
    「ここで、いい。よそに行かなくても、ここがいい」
    「そして、ここで深く深く掘り続けることだ」と。
    そうなんだな。
    書くこととは、深く深く掘り続けることだ。
    どこまでもどこまでも、深く深く。
    すると、きっといつか鉱脈にぶち当たる。

    だから、いつも私の文は、長くなりすぎるんだな。

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