新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

新規登録(無料)

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

親父たちよ

親父たちよ>掲示板

公開 メンバー数:62人

チャットに入る

サークルに参加する

サークル内の発言を検索する

新しいトピックを立てる

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: クマドンさん

    2020年12月20日 07時27分26秒

    icon

    絶対矛盾的自己同一なんだな

    ここ一カ月余り、ラジオ深夜便を聴いた後で、
    私のFBに長文を打っている。
    「長か過ぎーーーー」と不評であるが、
    そうであるからこそ、受けて立ち、燃えた心で書いている。
    つまり、この「親父たちよ」は、第2ラウンド。
    へとへとになってから、また立ち上がったボクサーもようなもの。
    あれだけ書いていて、またよく出て来るものだと、
    自分でも呆れている。

    だからと言うわけではなく、浅めで短めなコメントになっている。
    フラフラになりながら書くのだから仕方ないと、
    そう想いながら、気楽にこれからも書き続けることにしている。

    昨夜も、三重の友とリモートだった。
    奥さんの話は、余りお互いにしなくなった。
    まず、今は「異星人学会」は、開店休業とした。

    彼の仕事の話だった。
    介護福祉士・音楽療養士が、彼の専門だ。
    だから、就労型の福祉施設に採用になり、勤務した。
    とかし、どういうわけか、厨房のサブに回された。
    一時的なものだろうとは思っていたが、そうではなかった。
    チーフの70代の大ベテランの叔母ちゃんのアシスタント。
    つまり、この二人でカフェのランチと、お弁当を作っていた。
    百を超える数を、2人で賄う。

    その叔母ちゃんが、先月に鎖骨?を骨折した。
    そしたら、彼一人が厨房を任された。
    早朝の出勤が続いた。
    主任は、ただ彼に仕事を任せて、何も手伝うことはしない。
    注文の数は多い。人手が足りない。
    就労の人たちにアルバイトとして入ってもらう。
    それでも、日々を必死に、やり切っている。

    何とも理不尽なことだ。
    どうしてこんなことが起こるのか。
    しかし、彼は不満でありながらも、それを受け入れて仕事している。
    先日は、4時に家を出て、早朝の仕込みだった。
    それは、彼がそう言いながらも、その現実を受け入れているからだと思った。
    この現実を、よしとはしないが、有とする。
    そして、その仕事の中にも楽しさと遣り甲斐を見出して行く。

    全く厨房での調理が初めててあっても、よきチーフに育てられ、
    今では、二百近くのオードブルを用意できる腕となっている。
    また、チーフから調理のこつと、味を伝授されている。
    それを、彼は自分なりにカスタマイズして、工夫している。
    そして、出来上がったランチやお弁当、オードブルを、
    お客さんたちは美味しいと言ってくれる。買いに来てくれる。
    その張り合いと喜びは、彼にとっては大きな生き甲斐となっている。

    理不尽に与えられたその調理の仕事だが、
    そのことを受け入れ、チーフに学び、育ててもらい、成長を遂げる。
    自分の作品としての料理をお客さんが喜んでくれ、
    わざわざお弁当やオードブルを買いに来てくれる。

    何もしないその主任は、きっと何もしない分、何も成長していないはず。
    たいてい、この種類の人たちは、仕事を人にさせる。人に回す。
    そして、自分はどうやったら楽をできるか、考えているものだ。
    確かに、早朝出勤も無く、年休は自由に取られ、忙しくても知らぬ存ぜぬ。
    それを、本人は「楽だ」と考えているのかもしれない。
    しかし、そうやってのらりくらりと生きて来て、30年たった。
    この人は、きっとそのまま爺さになるのだろうなぁ。

    つまり、現実を受け入れ、それとしっかりと向き合い、
    そこから逃げず、自分の課題として問いを持ち、挑戦を続ける。
    その中にしか、人が人として成長する機会はないのだと思う。

    最近、「これは・・・」と思う、難しい課題を与えられることが多い。
    こんな平凡な日常生活を過ごしていても、その課題は日々向こうからやって来る。
    その時だ。
    それをどう回避して、やり過ごそうかを考えるのではない。
    それをどう取り組み、どのような方法で解決しようかと考え、実行する。
    確かに、この二本の道は、生き方としてあるような気がする。

    この時、頭で損得を考え、責任の所在とリスクを計算する人は、
    それを「やらない」「しない」という道を選ぶ。
    そして、「やらない」「しない」理由を、「出来ない」理由にすり替える。
    この人たちは、言い訳がとても上手い。
    何を言われても相手を納得させるための、想定問答すら考えていたりする。
    というか、相手に何か言われたら、直ぐに言い返す本能で生きている人だ。
    言われたままでは、負けなんだな。
    まぁ、頭で生きている人は、ゼロか1の人だ。
    その勝手に造り出した自分本位の企画が全ての基準。
    可哀想だが、この人たちは、歳をとったら、どんどん劣化する人たちだ。

    しかし、彼のように身体で考え、行動する人がいる。
    いつも身体を優先にする。ぐずぐず言わない。さっと厨房に立つ。
    目の前には次々と解決しなければ課題がやって来る。
    それを間髪を入れない。とやかく言わない。黙ってこなす。やり続ける。
    それは、全て身体の動きだ。頭は、その処理を速くするための工夫を考える。
    身体は次々と仕事をこなしながら、頭はどこか冷静に観察し、判断している。
    その一体感は、身体と心には、とてもとても気持ちよいものだった。

    この身体と心と頭とが、バラバラになっていたり、
    そのバランスが悪かったり、
    頭が8で身体が2となってしまった時は、仕事は全く気持ちよく進まないものだ。
    そのことを彼は知っている。
    頭を優先させると迷う、腹も立つ、やる気が失せる。
    しかし、身体をせっせと先に動かす。段取りを即決めて、さっさとそれをやる。
    やりながら、次の段取りを同時に考え、ぱっとそっちに移行する。
    これって、カンポスのマスターの調理する姿そのもの。
    彼の調理の姿は、踊りやダンスそのものだった。

    主任は頭で考え、ぐずぐずしている。
    彼は身体で考え、さっさと動き続ける。
    この二人の違いが、大きな違いなんだと、
    身体で生きる人たちなら、そのことがよく分かる。
    だから、その人たちは、決して頭の人たちのところに行かない。
    自分は、絶対に頭の人には戻らないと決めている。

    ここに書かれてあることが分かる人は、身体の比重が多い人だ。
    このことを「異星人」たちに語っても、
    頭で考え、「みんな」「普通」「全部」「常識」という企画が基準だから、
    このフリーダムな生き方は、企画外れのおかしな生き方と判断される。
    本当に、頭と身体とは、相いれないもののようだ。

    しかし、こんな言葉もある。
    西田幾多郎の言葉だ。
    これが、彼の哲学の本質だと言われている。

    「絶対矛盾的自己同一」

    きっと身体で生きている人には、この意味が少し分かる気がするはずだ。
    まぁ、頭でっかちで、世の中のありもしない規格品を生きようと努力する、
    私たちが異星人と呼ぶ人たちには、絶対に分からない言葉でもあるはずだ。

    私は、この「問い」を20代前半でいただいた。
    そして、ずっとずっとこの問いを温めて来た。
    無理だとは思わず、捨てることなく、大切に抱き続けて生きて来た。
    そして、今、ここ、自分は、
    やっと何だかそれになっていたのではないかと、思えるようになっている。
    不思議なんだが、「それで、いい」だった。

    だから、身体で生きている人と、何だか深くで同じ言葉を共有できる気がしている。
    みんな本当は同じなんだ。
    ただし、個性としては、片手に5本の指があるだけなんだな。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

コメント: 全0件