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  • from: クマさんさん

    2011年12月29日 07時58分30秒

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    昔々山ノ下には

    最近、沼垂の柵について研究をしている。
    この沼垂の柵とは、大化2年(647年)朝廷によって造られた城のようなものである。
    その地名を見て分かるように、その名から現在の沼垂が関係していることがよく分かる。
    実は、元々の表記は渟足(ヌタリ)と書いてある。
    1990年11月に和島村八幡林遺跡から出た木簡に「沼垂城」と記されてあった。
    この木簡は、養老年間(717年〜724年)のものであるから、
    この時代には沼垂の柵は現存していた歴史的な証拠となっている。

    つまり、沼垂の柵は、この地に存在していたのである。
    しかし、その場所を未だに特定できないでいる。
    それは、洪水によって流されたのか、地中深く眠っているのか、それも分からない。
    文献と木簡には、文字としての証拠はあっても、
    現実に私たちが見ることのできる証拠は何一つ存在しない。

    しかし、王瀬と呼ばれる土地であること。
    その王瀬には、元々の沼垂があったこと。
    沼垂は江戸時代に約50年間に川欠け等のために4回も移転したこと。
    沼垂のお寺は、元々この山ノ下にあったこと。
    沼垂白山神社の先祖の墓は、日東紡績の敷地近くの一画にあること。
    そして、そこには「王瀬の長者」と呼ばれた長者が住んでいたと言う伝説があること。
    それは、確かに分かっている。

    実は、こうして考えると、山ノ下とは昭和の初期から工場地帯となり、
    その工場城下町として栄えた新しい町だと思っている人が多いだろうが、
    そうではない事実はたくさん発見されているのだ。
    ボーリング調査の結果、約5000年前にこの大山の近くは阿賀野川の流域で、砂丘が存在していたようなのだ。
    沼沢火山灰が-180m位の地下から発見されているからだ。
    縄文時代の内水面の遺跡には、人が住んでいた集落跡が多数発見されている。
    とすれば、この山ノ下にも縄文時代に集落があった可能性があるのだ。

    さてさて、そんなロマンがこの地域には未だ発見されずに眠っているのだ。
    つまり、宝の眠る町、宝町がこの山ノ下・王瀬・物見山・河渡地域なのである。
    私は、その地名に謎を解く多くのヒントが隠されているとは思うが、
    それは、またここに書くことにする。

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