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from: クマさんさん
2012/07/11 16:15:48
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父が施設に入所した
父が、今日の午前中に自立型の介護施設に入った。
ディサービスで四日間お世話になった施設だ。
こんな形で父が入所しようなどとは、五月では全く予想はしていなかった。
五月でには、まだ母が命を削りながら台所に立ち、
父と四時過ぎに夕食を食べ、父は紙パックの日本酒をストローで飲んでいた。
母は、痩せた身体で両手に荷物をぶら下げて、山ノ下市場に買い物に行き、
今でも市場のお婆ちゃんたちが話をするくらい、有名だったそうだ。
私と父と次男食べさせるためにに、必死で歩き、肝臓を痛めていた。
しかしだ。その頃には母はここで生きていたのだし、
父は母に促されながらも、自分の足で歩いていたのだ。
その最中では、そのことは日常であり、明日もまた続くものと勝手に思っている。
母は、疲れ果て、よく椅子に横になって眠っていたものだった。
父は、炬燵に入るわけでもなく、胡坐をかいてテレビの前に座っていた。
テーブルの上には、母が山のように作った天ぷらが大皿にのっている。
父は、母が夜中に起きてまでも食事を作ることに、腹を立てていた。
「何で、もっと自分の身体を大事にしねんだ。」
母は、残された時間が少ないことを、知っていたのかもしれなかった。
母は、肝臓の癌のことや余命のこと等は、絶対に知らないはずだ。
でも、母のことだから、全てを了解し、納得し、その上で尽くすことを志したのではないだろうか。
あの必死に荷物を両手にぶら下げて家に向かって歩いて来る母の姿。
そこには、信念とというか、執念というか、
そんな想いの凄さだけが感じられたものだった。
「何ができるだろうか。」
母は、思ったことは、実行していた。
母は、私たちの為に裏の市場でぶりの刺身を大皿で注文して来る。
それも脂ののったはらすをたっぷりと並べてもらってだ。
私も父も次男も、この刺身が大好物だった。
母は、刺身はその魚屋さんに決めていた。
ある日、私はその市場に行った。
魚屋さんが、向かい合って二件ある。私は、どちらかは分からなかった。
丁度お向かいのHさんが買い物に来ていた。
「Sです。母が刺身を買っていたのは、こちらですか?」と、聞いた。
お店の叔母さんは私の顔をまじまじと見てから、
「そうら、あんたSさんの息子さんらかね。よく似ていなさるは・・・。」と、寂しそうに笑った。
私は、母が買ったぶりの刺身を500円で買った。
昨日もその刺身を買って、夕食に食べていた。
ぶりの身がしまり、実にコリコリとした味わい深い刺身なのだ。
私は、その刺身を肴に、菊水一番搾りをちびりちびりと飲んでいた。
「なぁ、お母ちゃん。どこ行ってしまったんで・・・・。」
流しに向かって何かしている母の後姿に話しかけた。
「やっぱり、この刺身、うんめねぇ。」
母は、笑顔で自分の席に座った。
「なぁ、お母ちゃん。俺さぁ、もっと話しておけばいかったね・・・。」
母は、横に座って食べている父の世話をしていた。
父は、目をつぶって紙パックの日本酒を飲んでいた。
その途端に、私は「異人たちの夏」のワンシーンを思い出した。
私は、突然、涙がどっと溢れだして、止まらなくなってしまった。
嗚咽し、声をあげて、母と父の不在の席を見つめて泣いていた。
たった独りの夕食だった。
「お母ちゃん。・・・・・。」
うおん、うおんと、泣きたくなった。
やっと泣けたのだ。
私は、こんなにうおんうおんと、子供のように母が死んでから、初めて泣いた。
できるならば、もう一度会いたいんだよなぁ。
その切なさと、その寂しさと、その悲しみとは、
母が居ないのだが、そこに居てくれることの切なさであり、寂しさであり、悲しみだった。
母は、その泣きっぱなしの私の背中を、そっとそっと撫でてくれた。
母は、私の悲しみを受け止めて、悲しい眼差しで目詰め返してくれた。
泣けて、よかったと思った。
母は、私の涙を嬉しいと思ってくれただろうか。
悲しみの涙は、その人への強い強い想いがあるから、深いところから溢れだす涙なのだ。
人には、温かい涙がある。
さて、父も今頃は施設の個室のベッドで、
母のことを想い出して涙しているだろうか。
五月の初旬、我が家は五人家族だった。
七月、母は初七日を終え、父は介護施設に入り、妻は未だ退院の目途が立たない。
私は、介護休暇で疲れ果て、次男は9時に夕食を食べる。
私と次男の二人暮らしは、既に40日以上続いている。
今日一日。
実は、とっても大切なかけがえのない一日一日を過ごしているのだとは、
なかなか思わないで終って行くのだ。
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