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  • from: クマさんさん

    2013年11月29日 19時04分39秒

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    ああ、自分の人生は自分で行きたいものだなぁ

    「どの苦しみも、みな自分のために与えられたものであり、
     その中にこそ、自分の学ぶべき課題が与えられているのだ」

    56歳でどん底を経験している。しかし、どん底はまだまだだ。
    底はもっともっと深いようだ。でも、ここまで生かされてきた。そこに配慮を感じている。
    苦しみを認める。苦しみを受け入れる。苦しみの中で生きる。
    その生き方を学ぶために、この苦しみが与えられているのかもしれない。
    神は、人が耐えられない試練はけっしてお与えにならないと、イエスは言っている。
    確かにそうだった。試練の中で分かるのは、ます自分の弱さと愚かさとだった。
    しかし、それを自己否定としてはならないのだ。
    なぜならば、自分とは本当はそういうものなのだと分かるためにこの苦しみがあったからだ。
    苦しみの中で、削ぎ落とされるのは、我という執着だった。
    まだまだそんなに自分のことをたいしたものだと思っているのかと、
    自分の中の自分が笑ってくれる。
    それがいいんだ。自分の情けなさと弱さと愚かさとが露になる。
    そこで、初めて本当の自分と出会うことになるのである。
    ただし、自分とは弱く愚かな自分だけでなく、その自分を見守る大いなる自分が居ることも、
    この苦しみの経験を通してだけ、人には明らかにされるのだ。
    そして、もう一つは、苦しみの最中にいるときには、去るべき人は去っていくが、
    いつもいつまでも心配してくれる真の友だけは、けっして去ることはなく、
    心配しながら、いつもどんな場所でも、魂として傍に居てくれるのだった。
    その事実を理解するためには、人は何度もどん底を味わうべきなのかもしれない。
    どん底には、ゆるぎなく信頼できる優しさと出会えるチャンスがあるのだ。

    「どこでも自分が主人公になれる力」

    人生は一幕の舞台であるとは、シェークスピアの言葉だっただろうか。
    物語には主人公が登場する。
    自分の人生そのものは、実は自分が主人公の一つの舞台なのかもしれない。
    ただし、主人公すらその舞台の粗筋も結末も知らないという、素敵な舞台なのだ。
    実は、この主人公という言葉は、中国の禅の師による言葉なのだ。
    人には、その人の中にその人である主人公が居るというのだ。
    私はある意味我執による迷える私であるが、
    その私の主人公は、ちゃんと道をわきまえ、その中道をまっすぐに歩いているのだ。
    だから、その禅の師は、時々坐禅の修行をしながら呼ぶのだそうだ。
    「主人公」と。それも大きな声で自分自身に呼びかけるというのである。
    すると、自分がこれも大きな声で「はいっ」と答えるのである。
    「主人公」「はいっ」
    私が生きているのではなく、できれば主人公の物語を私の人生として行きたいものだ。
    その自分の中に生きる、主人公の存在を信じて、委ねることが、
    どこでも自分が人生と言う舞台の主人公となれる唯一の道なのだ。

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