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  • from: クマドンさん

    2017年02月12日 07時25分25秒

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    「君の名は。の君に」

    私は、誰と話しているのか。
    こうして確かに独白でしかないこの語りだが、
    何だかやっぱり誰かに語りかけているのではないかと想うことがある。

    Sさんと話した。
    何と2時間近くもだった。
    彼は、いよいよある会の終いのための原稿を書いていた。
    しかし、書きながらどうも筆が進まない自分自身を感じていた。
    これまでの20年間の実績を思い出し、
    その一つ一つの光跡をそこに記そうと努力していた。
    しかし、違うのだ。何だか面白く感じない。言葉が言葉として響かない。
    それで、彼は仙台の友に電話して相談したそうだ。

    そこで、友から言われた言葉は、
    「想ったとおりに書けばいい」だった。
    彼には、本当に偉大なる師匠が居る。
    その師匠と共に歩んできた20年間でもあった。
    しかし、ある年から、彼は彼の思いで、独自の道を歩き始めた。
    その師の教えをいつも胸にしながらも、
    彼にとって納得できる、腑に落ちる道を、模索して来た。

    そこで、多くの人や自然との出会いが在り、多くの発見と気付きとがあった。
    それは、彼が自らの身体と心とで感じた経験だった。
    その経験を積み重ねるうちに、何時しか知らず知らず、
    その道は、師匠が夢描いた壮大な道とは違い、
    もっともっと身近で、確かで、当たり前で、素朴で楽しい道を歩くようになっていた。

    Sさんは、小千谷の東山の森の中にある、親子と遊ぶ交流の場に参加している。
    彼にとっては、森は作るものでもあるが、ここにどんと存在しているものだった。
    その森に入り、その森の気を吸い込み、その気に浸るだけで、
    身体も心も気持ちよく、解放される実感を感じていた。
    それは、学問や生態系ではない。
    何かの目的のためのものでもない。
    ただ在るもの。ただ感ずるもの。ただ喜びを感ずるものだった。

    彼は、80歳に近くなって、こんなに日常の生活が豊かであったのかと、知った。
    彼の妻との二人暮らしの、何とも幸せで、楽しいことかとよく語ってくれる。
    私は、「クマさん、いいもんらなぁ」と、笑っている彼の言い方がとても好きだ。
    本当にその日々の二人の暮らしを丁寧に、温めながら生きていた。
    「生活」だね。
    命の蘇りと彼はよく教えてくれる。
    「罪深かったね」とも言う。

    蘇りは、黄泉がえりだなぁと、私はふと想った。
    私は、文字通り黄泉がえりを経験したし、
    彼もまた数多の試練の中から黄泉がえりを経験した人だった。
    もし、彼があのまんま突っ走っていたら、
    この静かで、実に穏やかな生活は、わからずにいたのではないだろうか。
    彼は、そこに気付いた。そこに目覚めた。
    そして、その話をいつもいつも楽しそうに語ってくれる。

    それは、彼が語っているのではない。
    きっと彼にそのことを気づかせ、語らせる大いなる計らいの力ではないだろうか。
    そこで語られる彼の言葉は、聴く者を蘇らせる力が在る。
    何故なら、その言葉は、自分の深く深くから溢れる言葉で、
    自分が一番聴きたい言葉であるからだ。
    実は、彼が語っているのではなく、
    彼は彼の奥深くで眠っていたものが目覚め、語りだした言葉を彼が聴き留め、
    その言葉を、彼がそのまま語っているのではないかと感ずる時がある。

    深い言葉とは、普遍の言葉なんだ。
    そんな語り合いの時は、私と彼との区別は必要なかった。
    彼は私で、私が彼で。
    そして、言葉がここに在り、その言葉に感動している二人が居る。
    本当に「語り」とは、自分を超えた深い深いところからの言葉なんだな。
    「吾」という本来の面目の自分が、「言う」
    つまり、その本来の面目・主人公が居ない語りは、嘘になる。

    言葉を語るとは、そういうことではないだろうか。
    それは、言葉を語ると言う表現ではなく、
    「言葉が語る」という言い方のほうがぴったりくるような気がする語りだ。

    Sさんは、原稿を書くときに、言葉を語らせなかった。
    自分の師匠に対する遠慮や配慮で、言葉を制限し、言葉を黙らせた。
    そして、論文をただ書こうとした。
    しかし、その言葉に人の魂に響く力は存在しない。
    一回さっと読んで、それっきり。
    そんな言葉は、もう書かなくてもいいとSさんも想っているのに・・・・。

    「そうだね。そうだったな」と、電話の最後は、言葉の人に戻っていた。
    「言いたいことを言う」「本当の自分の想いを語る」
    言葉で表現するとは、その想いとの一体感・同一感のことではないかと、
    私は、語り合いながらそう感じた。
    ここに記す言葉もそうだった。
    「よく見られよう」「面白く創ろう」とすると、
    その言葉は、単なる作り物の言葉になってしまう。

    不思議なんだが、こうして書きながら、ここまで一気に書いている。
    ここまで20分間の仕事だ。
    そして、書いた私自身が、その気付きを喜んでいたりする。

    この言葉を書かせているものは誰なのか。
    「君の名は。」
    その君を信じたい。
    Sさん、今日も本気になって原稿書いていることと思います。
    Sさん、「君の名。の君に、」書かせてやってください。
    その言葉こそ、Sさんの中に蘇った「君」が真摯に誠実に語る言葉となるはずです。

    原稿、楽しみにしています。

    追伸:ふと気付いた。長年の問いだった。
       自分とは、「自然から分かたれた自分なんだ」と。
       つまり、普遍なる存在である中で、
       クマと言う限定された存在としてここに在るということ。
       クマは、その奥深くで自然のいのちそのものと繋がっていること。
       そことは、地続きで、ずっと一体であること。
       なのに、そのことをすっかりと夢のようにして忘れていること。
       「君の名は。」の問いは、ずっとずっと持ち続けねばならないこと。

       すると、いつか、その君と出会うこと。
       そして、君に出会った瞬間、きっと君だったとわかること。
       何故なら、私が君で、君が私だから。

       「君の名を。」

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