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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2017/09/23 06:27:53

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    俺がの人へ

    何だろうなぁ。
    そのままでいいのに、そのことに素直になれない。
    弱くていいのに、強がっていて、弱みを見せない。
    愚かでいいのに、賢い人のようにしてふるまったりする。
    それは、自分が頭で造り出した仮の自分でしかないのに、
    そう決めた。それが正しいと思い込むことで、
    がんじがらめにそこから抜けだせない。縛られる。

    心をそうして不自由で辛いものにしてしまうのも人間なんだなぁ。
    だからと言って、私が「そうじゃないよ」と、言える立場でもない。
    大人って、本当に生き方が難しい。
    きっとその人は、そうやって突っ張って、弱音を吐かず、
    時には、自分のことを厳しく諌め、追い込んで生きて来た人なのだろう。

    人は、甘えると駄目になる。
    人は、強くならなければいけない。
    そんなことでどうすると、叱咤され、追い込まれて生きて来た人。
    その人にとって、弱さって、人生の敗北者と想われるのだろうか。

    この歳になり、辛さと苦しさと哀しみをこれでもかこれでもかと体験をした。
    いや、自分の思い通りにならないことは、
    天から与えられたこと。天から預かったことと、松原泰道さんが言っていた。
    そうだなぁと、今は、やっと想えるようになった。

    どうして、天は、私にそうした過酷な試練を与えて来たのか。
    それは、その結果を見ればよく分かるはずだ。
    それは、自分自身の弱さを知ることであり、
    どうにもならない自分と言う人の愚かさを知ることであり、
    ここまで生きて来られたのは、自分の力ではなく、
    たくさんの人たちによって支えられ、生かされて来たことを悟らさせるためだった。

    つまり、弱さと、愚かさと、罪とは、
    その人を、本当の人として再生させるための大事な気付きだった。
    もし、そんな自分に気付かせられたとしたら、
    そんな自分を、しっかりとあるがままに見つめられたとしたら、
    「俺が」とは、言えなくなるに違いない。
    「これが正しい」とは、誰が言えるか。
    「何でそんなに駄目なんだ」とは、誰に対しても言えないことだし、
    「そんなことは世の中の常識です」とは、断言はできないはずだ。

    でも、本当に強いと勘違いしている人は、
    周りの人にも、自分のちっぽけな価値観を押し付ける。
    その価値観だけで人を裁き、差別する。
    時には、相手を低く見て、馬鹿にする。
    同じ60年を生きたとしても、
    まだまだこうした「俺が」の生き方しかできない人も多いのが現実だ。

    私は、そうした人に出会うと、絶句する。
    何を言っても無駄だと諦める。
    何故なら、人の話を謙虚に聴く耳をもたない人だからだ。
    不思議なんだが、この人たちは、私が語っている間、
    違うことを考え、そうではないと反発し、頑なに拒んでいる。
    そして、自分の話す番になると、
    全く話の脈絡に関係なく、自分の正しさだけを主張する。
    そのすぐ前の、私の話って、どこに消えてしまったのだろう。

    「自己を学ぶとは 自己を忘れることだ」と、道元さんが言っている。
    この「俺が」の人たちは、自己で目いっぱい、ぱんぱんに膨らんでいる。
    だから、他者の言葉や、真実の言葉が、その器には入って行かない。
    語る私は、ただただ虚しさだけを感じる。
    私も、そうだったから、よく分かる。
    人が語る忠告や戒めや、間違った生き方を修正せよとの言葉は、
    全く耳に入らず、全く聴く気にもならず、拒み続けていたものだ。

    我見とでも言うのだろうか。
    そのことで目いっぱいで、頑なにそのことだけの正しさで生きていた。
    そんな「俺が」の日々も長く長く続いたから、よく分かる。
    その「俺が」に「真実」を分からせるためには、
    一回どん底に突き落とさなくてはならないのである。
    自分自身に泣かねばならないのである。
    どうにもならない自分と向き合わせなければならないのである。

    それを、天は、試練と呼んだ。

    それは、時には病として訪れ、身体の障害として訪れ、死として訪れる。
    また、災害として訪れ、不慮の事故として訪れ、家族との離別として訪れる。
    その時なんだな。
    「生きるとは何か」を、人が本気で問い直す時が。
    その苦しみと孤独とを経ていない人たちは、
    きっといつまでも聴く耳をもたずに、強がって生きることだろう。
    でも、それって、とても寂しい生き方ではないだろうか。

    人を馬鹿にしたり、人を駄目な人だと決めつけたり、
    「何でそんなにできないのか」となじったり、怒鳴ったりしている人を見ると、
    私は、何とも哀しい気持ちになってしまう。

    ああ、この人は、自分を知らないまま、ここまで生きて来たんだな。
    ああ、この人は、自分の弱さから眼をそむけて生きて来たんだな。
    そうである自分が、きっと赦されないから、人にそれを求めているんだなぁ。

    本当の自分になれずに、作り物の仮想な自分のまま、
    自分自身を騙しながら、生きようとしているんだなぁ。
    それって、とてもとても同じ人生を生きる人として、
    哀しいことではないだろうかなぁと、私は想う。

    でも、「余計なことを言うな」「お前とは、私は違う」という、
    そんな声も私には聴こえてくる。
    だから、私は、何も語らない。
    ただ、天はきっとその人を憐れんで、
    思いもよらぬまさかの試練を与えられることだろうと想っている。

    人は、体感で、身体の痛みを通してしか、学ばないものだ。
    私が、そうだった。

    ただ、その人たちの心の頑なさが、少しでも溶けることを祈っている。
    涙を信じることだ。
    涙を流すことだ。
    涙がきっとその人の頑固な心を溶かしてくれるはず。

    涙を流せば流すほど、本来の真実の自分に「戻れる」はずなんだ。

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