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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2018/05/08 09:47:34

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    「慈」とは。「悲」とは。

    みんな独り独りの物語りだ。
    その物語の深さ、豊かさ、リアルさが、その人だった。
    先日のコンサートに描いた人たちは、
    自分の人生を舞台にして生き切っている人たちだった。
    そのことが、顕れる。
    表現に沁み出て来る。
    それを、私は感じて、涙を流す。

    「悲しさや、辛さ、絶望や、孤独を味わったことのない人いませんね」
    昨日のSさんとの電話だった。
    「私が、分かったことはそのことでした」だった。

    父と母との悲しい別れがあった。
    大病しての入院だった。
    二度の切腹手術と10個以上のお腹の穴の跡だった。
    だから、私は、プールでも上着を着ている。
    恰好をつけているわけではない。
    そんな悲惨な大きな傷跡を人に見せて不快な想いにさせたくないからだ。

    絶望のどん底に堕ちたこともある。
    「Sさん、途中で留まっていると駄目なんですね」
    「堕ちきらないと、また、誰かを頼り、誰かを当てにします」
    「しかし、本当にぶっ潰されて、どん底に堕ちると、底に着きます」
    「そうすると、自分の足でやっと立てます」
    「どん底に堕ちると、やっと人は、落ち着きますね」

    そんなどん底を味わった人でないと、
    この話はきっと分からないだろう。
    不思議なんだが、どん底はそれぞれの経験なのに、
    そのどん底を味わった人たちには、
    そのどん底の落ち着き、孤独、気付き、自己了解が、
    何となく分かるものだ。
    「あなたもねぇ・・・」だった。

    人は、そうしたリアルな体験や経験を味わったことの想いを、
    渾身となって、よく見せようとも想わないで、
    ただ、叫びのように、怒りのように、嘆きのように、
    そのままを表現する時、その瞬間に、
    その人を超えた存在に変化(へんげ)する。
    私は、その瞬間に立ち会うことがある。
    それは、奇跡の瞬間だった。
    私は、ただただ涙が溢れ、身体が震える。
    身体がそのリアルに感応し、涙が止まらなくなったりする。

    そんな感動を深く深く味わっている私は、
    その時、それまで気付いていなかった私と、そこで出会う。
    ここに感動して身体を震わせているのは、私だ。
    でも、そうしようとして、そうなっている私ではない。
    時には、突然その感動に襲われ、どうにもならない状況になることがある。
    それって、私が、そうしようとしたから、そうなったのではなく、
    いつの間にか、深く深くの私が顕れ、私になっている。

    それは、彼女や彼の感動であり、表現であるのに、
    そのまま私は感応し、その感動そのものに変化させられる。
    「リアルなものとは、独りであるものでなく、関係の中に存在しています」だ。

    そんな深くを生きている人と対話したり、語りを聴いたりすると、
    そこに生まれる感動が、共感が、リアルなものとして確かになっていく。
    そのリアルの確認。リアルの了解。リアルの納得、腑に落ちる。
    音楽がそうだ。舞踏がそうだ。歌がそうだ。演劇の舞台がそうだ。映画がそうだ。
    書がそうだ。絵画がそうだ。彫刻がそうだ。
    表現される全てのものに、その感動は隠され、託されている。
    ただし、語る人、歌う人、演ずる人なのではないだろうか。

    私の中に宿る深い深い魂の私は、
    その奇跡に触れることで、その奇跡に感応することで、
    瞬時に目覚める。はっと気付く。鼻の奥が熱くなって、涙が溢れる。
    すると、私は発見する。
    「ああ、今、ここで、わたしは、感動しているんだなぁ」
    「この現われは、リアルな真実であり、善であり、美なんだな」と。

    「真・善・美」なんだな。
    それと出会うことが、奇跡の瞬間だ。
    ところが、いつも、こうしていても、あるがままに、「真・善・美」。
    なのに、気付かない。感じない。味わわない。感謝しない。涙を流さない。
    それは、ステッチが押されていないからだった。
    そして、そのステッチを押してくれるのが、深い人であり、深い表現だった。
    その出会いの中で涙を流せたら、
    そこで感じたものこそは、リアルなる「真・善・美」なんだな。

    その人生の試練に耐え、その宿命に抗いつつも、忍耐し、
    その弱さに慄き、愚かさに気落ちし、罪深さに悔い続けた。
    そんな一時期を過ごして来た人だけに、
    見える世界や、深い言葉や、感じられる色や音があるはずだった。
    それを、共感し、分ち合える人もまた、
    そうした試練に耐え、その宿命を受け入れて、生きて来たひとなのだと私は想う。

    まず、そのどん底なんだな。
    そこからしか、生きるは始まらない。
    中途半端にひっかかっていては、まだまだ、誰かに助けてもらおうとしている私。
    本当にどん底に堕ち、そこで、はっと気付くと、
    実は、私だけでなく、みんなそうだったんだと、初めて気付くはずだ。
    その気付きを、こんな愚かな私に与えるための、
    神様からの恵みであったのが、この大きな腹の傷跡だった。
    そして、「あの人もそうだったのか」という気付きこそ、
    「慈」なんだと、やっと分かった。

    ならば、今度は、その悲しみや苦しみの人たちを助けるために、
    そのひとのことを先に想って、小さな行動を起こすことだ。
    その行いこそ、「悲」なんだと、やっと分かった。

    時間なので、ここまでにする。

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