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from: クマドンさん
2019/08/13 06:43:16
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会津の武士たちの無念とは
8日「つるの湯」の朝だった。
滔々と流れる只見川に臨む露天風呂に独り居る。
カジカの声だろうか。向かいの山の緑の木々に森閑と響く。
その風呂の岩に坐禅を組んで瞑想をする。
人は居ない。
大自然と向き合い、自分自身の心と向き合う。
そうなんだ、旅とは、本当は自分自身と向き合う時なんだ。
日常生活は、時間に追われる生活だ。
今は、お盆休みだから、私がこの時間の主人公である。
しかし、いつもなら、午前6時は、下に降りて、庭の水くれだ。
時間は、向こうからやって来る。
それは、ルーテーンだからだ。
しかし、私のような一人旅には、そうした気遣い、忙しなさが無い。
向こうから来るのは、チェックアウト・列車やバスの発車時刻・閉館の時刻だった。
後は、その途中は、私の自由だ。
そして、変更は、いつも状況によって、ありありだった。
私は、露天風呂で心と魂の垢を落とした。
すっきりと軽くなった。
早戸の駅まで宿の叔母さんに送ってもらった。
旅人には、とても優しい人たちだった。
その優しさを受けることで、私も恩返ししたくなる。
その優しさに、「また、来よう」と、思うようになる。
少なくともだが、私は、旅の間は出会った始めての人たちには優しく声をかける。
「ありがとう」と、よく言っている。
只見線の不思議は、福島に入ると会津という名前が駅名についていることだ。
それだけ、会津を誇りにしているのかと思っていたら、
新潟側の駅には、越後の名前が駅名に付いている。
それは、旅する人への親身になった親切なのだろうか。
会津若松駅に予定時刻の10:34に到着した。
それから、バスに乗り、鶴ヶ城を目指した。
修学旅行で私は50年前にこの城を訪れた。
今はなきS小学校の修学旅行は28年前である。
そんな私が、この城に立っているような錯覚だった。
同じ場所を訪れると、その歳の私とそのかかわった人たちのことが思い出される。
今回の旅の目標は、会津の戊辰戦争の歴史を訪ねることだった。
鶴ヶ城内の資料を読みながら、私は、やっと会津藩の歴史を理解した。
京都守護職に任じられるのは、仕方ないことだった。
徳川慶喜と遠い親戚であった松平容保は、幕府の命には抗えなかったのだろう。
そこで、容保の守護のために組織されたのが、「新選組」だった。
何とこの会津は、新選組フリークには、聖地だった。
近藤勇の墓が、東山近くの天寧寺にある。
あの榎本孝明も、この会津で闘い、仙台から船で函館に渡った。
鶴ヶ城は官軍に寄る何万発の砲弾で、木っ端みじんに破壊された。
会津の町は焼かれ、鶴ヶ城とその周辺は、広大な更地となった。
その鶴ヶ城跡地が売りに出され、それを地元の篤志家が私財を投じて購入した。
その土地を福島市に献上したから、今の鶴ヶ城がある。
日新館での十の掟があり、幼いころから武士としての生きる道を教育された。
「ならぬものは なりませぬ」これは、今の教育にも受け継がれていると言う。
先人たちがここで闘い、敗れ、多くの人命をこの戦で失った。
西軍は、その賊軍と呼んだ会津の武士や兵たちの屍に触れさせなかった。
葬ることも赦されず、1年間、その屍は街のあちらこちらに放置された。
何とも惨いことだろう。
当時の長州藩を中心とする西軍は、ある意味テロリスト、殺戮部隊だった。
降参している藩に、突然大量の武器と弾薬を仕掛け、攻撃する。
その挙句、この会津の人たちは、35万石から3万石に降格され、
下北半島の米すらできない寒い土地に斗南藩として追いやられた。
生きた者たちにとっても屈辱の日々だった。
阿弥陀寺には、そんな放置された屍1200体以上が赦された後、合葬された。
西軍の行ったこのホロコーストは、日本の歴史における汚点ではないか。
同じ日本人が殺し合う。
それも、降伏している藩を大量の兵器と何万の兵とで攻め立てる。
闘わずして、その勝敗は明らかに決しているのに、
禁門の変・長州征伐の恨み。まさに、これは、長州藩の私怨にすぎない。
前年に既に、将軍は大政奉還を終えている。
この戦には、大義はなかった。
しかし、会津の人たちには、その憤りと怒りとが感じられなかった。
私たちは時の明治政府が造った教科書に寄る歴史観を150年も踏襲して来た。
それを、信じて来た。
私も、そう子どもたちに教えた。
しかし、真実はいったい何だったのか・・・。
それを知るための戊辰戦争の旅でもあった。
飯森山では、小学生だった時、白虎隊の舞を観た。
そして、再びあの自刃の場所と、彼らが鶴ヶ城を見つめた場所に立った。
ここで、まだ中学生や高校生であった若者たちが、
切腹し、喉に刀を突きたて、お互いに刺し違えて、命を失ったのだ。
歴史は、その場所に立ち、その人が見た景色を見ない限り、
何も語れないのではないかと、いつも想う。
歴史の現場に立つ。
すると、私の魂の奥から語りかけて来る言葉に気付く。
「そうか、そうだったんだな」と、やっとその人の想いが腑に落ちる。
私は。改めて東北の人たちの無念を感じた。
その無念について、私は子どもたちに教えていなかったことへの懺悔も感じた。
伝えねばならない歴史がここにある。
それをどのようにして伝えて行っらいいのか。
それが、この戊辰戦争で戦った会津の人たちからの問いとなった。
会津の旅は、私が再び歴史の事実と向き合う旅でもあった。-
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