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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2019/08/19 07:21:50

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    恩を信じる。感謝する。

    一杯のスポーツドリンクだな。
    今、その記事を読んで、じーんっと涙だ。
    行けるかな。そんな勇気は、私にあるかな。カッコつけと思われるかな。
    でも、迷わずにさっとマウンドに駆け寄った彼。
    そこに人間としての深い深い真実の姿がある。
    自分が痛めた時に助けてもらったから、いつか恩返しをしよう。
    「恩返し」を想い、相手チームと対戦する高校球児だな。
    その一杯のスポーツドリンクで何万人の人の心が救われたことだろう。
    「恩」を感じる。「恩」を忘れない。「恩」を返す。
    あまりにも出来ていない私。
    申し訳なく、情けなく、涙が流れる。ごめんなさい。

    さて、本日は「嘆異抄講義」暁烏 敏著 の「総決」からの引用だけを記す。

    「まことにわれもひとも、そらごとをのみまをしあい候ふなかに、一ついたましきこと の候ふなり。その故は、念仏をまをすについて、信心の趣をもたがひに問答し、人にもいいひ聞かすとき、人のくちをふさぎ、じょう論をたたかひ勝たんがために、またく仰せなきことも、仰とまおすことのあさましくなげき存じ候ふなり。」

    「他力廻向の信心ならば、智愚によらず、男女老若によらず、ただ一つなるがゆえに、この信心に住する人々は、皆同一根拠に立つ人といわねばならない。なるがゆえに、同じ信味がでてこねばならぬ。」

    「信心の異なるのは、自力の信心なるがゆえである。」

    「さればすべての異議の根本は、他力が味わわれぬからくるのである。自力の執心から起こるのである。この自力の執心を翻して、他力の信水に入ったならば、同一念仏無別道故とある、無碍の一道に出られるのである。」

    「一つ御親に恵まれておる兄弟姉妹であると気づかせていただければ、どうしてもこれらの兄弟が同じ心になり、一つの思いになって行動したいと希望するのは自然の勢いである。一致ににりたい、融和したいとは人の心の中心に動いておる希望である。この中心から嘆異の思いが湧いてくるのである。」

    「多くの異安心の原因は、すべて自力執心に基づいておるのである。自分の智慧や学問や道徳の上に建てられた信仰は、その高低浅深に従うて、各々の異なるがあたりまえである。これが一致であるのは、全ての同朋が、自己の働きをうち忘れて本願の尊さに、うちとけたときにのみできるのである。」

    「信仰は道徳ではない、また学問でもない。信仰は自分ではなんらかの能力のないものをこのまま助けていただくという自覚である。・・・救うてくださる大慈悲心の御心が私どもの胸に徹底したありのままである。信心はそのままで如来の慈悲であるといわれ。如来とも味わわるるのである。」

    「仏のご恩ということについては、なんらかの差異がないのである。」

    「徳なく学なき私は、徳高く学博き先生や友人よりも幸福なように思われ、しあわせなゆーように感ぜずにはえられません。」

    「一つ親の膝元に集まれば平等の兄弟である。恩寵の与え物にかわりないのである。この点からいうと罪業深重の私のような者は、何人よりも広大な恩寵を得ておるように感ぜられてならぬのであります。」

    信仰をもたない人には、一体何のことが書かれているのか分からないと思うが、
    最近、やっとこの言葉が身に沁みて、味わえるようになった。
    10年以上書棚にほったらかしだったこの本。

    一度は手に取って頑張って読もうと努力した跡の赤ペンの波線があるこの本。

    きっと途中でギブアップしたのは、理解できなかったからだろう。
    つまり、この暁烏さんの信仰を自らの信仰と感じられなかったからだと思う。
    歳をとり、信仰に再び立ち返らせていただき、教会に戻ることができた私。
    そして、その教会における試練の中で、自らの信仰を「問い」直している私。
    その課題をどうのように解決したらよいのか悩み、苦しむ私。

    その私と同じ苦しみを、親鸞は感じていたという驚きと在り難さともったいなさと。

    そして、結局恩寵として与えられたその信心を信じることが、
    その異なってしまった信心を一つにするための答えであることを教えられた。

    つまり、あの高校球児の一杯のスポーツドリンクなのである。
    救われた恩は、忘れてはならないということだ。
    そして、いつか、その時が来たら、勇気をもってお返しすることだ。
    そうされた時、きっと相手の心にも恩という温かな灯がともったはずだ。
    そして、しみじみと、ありがたく、その気持ちを味わうことだ。
    同じ仏心を味わう二人が、一つにならぬはずはない。

    ここにも親鸞の教えが生きているような気がした。
    「恩」を返そう。
    気付いて欲しいことは、既に、救われているということ。
    既に「恩」は全ての人たちに与えられているということ。
    それを、信じられるか。ただ、それだけのこと。

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