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from: クマドンさん
2019/10/06 06:31:05
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死に逝く人のメッセージだな
昨日は、久しぶりに20キロ近くのサイクリングだった。
9時からのヨガへ、自転車で行った。
駐車場が2台で、満杯になるためだった。
そんな時、ふと、辿りたい道のことを思い出した。
海岸線のサイクリングロードだ。
万代島一周にはまだ体力的な自信はなかったので、
関屋分水までの折り返しにした。
そのゴールは、トンネルをくぐった先の、せっちゃんの養護施設だ。
さすがに2時間のサイクリングには、へとへとになっていた。
施設に入ったら、何と「秋祭り」の当日だった。
このポスターに、車椅子のせっちゃんと叔母二人の写真が使われている。
この写真は、昨年の「秋祭り」に撮った写真だそうだ。
一年後の「秋祭り」の日に、せっちゃんは個室で寝ている。
そして、最期の時を迎えようとしていた。
へとへとに疲れた私は、せっちゃんのベッドの脇の椅子に座る。
あれだけ猛暑だった夏が嘘のように、
涼しい風が気持ちよく身体を包む。
せっちゃんは、左目を薄く開けたまま、瞳は濁った光で天井を見ていた。
その瞳の光には、意志は感じられなかった。
今、ここに横になっているせっちゃんは、
どこで、どうやって、居るのだろうかの問いだった。
「せつこおばちゃん。来たよ。俺、誰らか分かる?」
「名前、言ってみた。せっちゃん、起きてるけ」と、顔に近づき声をかける。
それでも、何の反応もなく、じっとその瞳は動かなかった。
「せっちゃん、ご飯食べましたか?」
「せっちゃん、俺のこと分かる?」と訊いた。
すると、ぎょろりとその左の瞳が動いた。
゛っちゃんの眠っていた意識にスイッチが入った。
「戻って来た」が、私の実感だ。
じっと私のことを見つめる。
そして、この人は誰なのかと、想いを巡らす、考える。
その瞳には、そうした意識の力を確かに感じた。
「まだ、逝ったままだはいない」という安堵感だ。
彼女を見ていると、いつも思うことは、
彼女は今、あの世とこの世とを行ったり来たりとていることだ。
私は、彼女の姿を通して、彼女のおかげで、
あの世とも少しは繋がっているように感ずる。
つまり、彼女は、あの世とこの世との通路で在り、窓であった。
今、ここで、最期の時を迎えようとするせっちゃんは、
私にとっては、あの世と交信させてくれる出入り口でもあった。
時々、せっちゃんは、顔を起こして、私の後ろの壁の一点を凝視する。
本当に、不意に訪れて来た人を驚いて見るような表情で、
じっと一点を見つめて動かない。
「せっちゃん、誰が来たん?」と、私は訊く。
「おたた(せっちゃんの母)が来たかね」
「俺のお父ちゃんと、お母ちゃんが来たかね?」
「せっちゃん、誰が来たん?」と、その眼差しには死者はリアルに写る。
私は、その眼差しの力から、私の背中に死者の存在をリアルに感ずる。
「迎えに来てもらって、嬉しいね」と、言う。
「婆ちゃん、お父ちゃん、お母ちゃん、せっちゃんのこと頼んだよ」と、言う。
「せっちゃん、いいかね。南無阿弥陀仏らよ」と、言う。
本当はアーメンと教えたいのだが、
せっちゃんにはその時間は余り残されてはいない。
せっちゃんの母であるハルさんは、信仰の人であった。
毎朝、お仏壇に向かって祈りを欠かさなかった人であった。
「仏様に全てを委ねて、安心して日々を生かされる。」
せっちゃんもそんな母に育てられたので、
きっと「南無阿弥陀仏」なら、言えると信じている。
せっちゃんの私への眼差しを見ながら、
きっと何年後かに私がそうなる臨終の時を想っていた。
せっちゃんの眼差しには、私が映り、きっと死者たちの魂が映っているはずだ。
では、私がその最期の時には、何をリアルに見ているのだろうか。
こうして私が信じて来たことや、私が愛して来たことが、
「ああ、よかった。」「本当だった。」「ありがとう」と、
感じたまま意識が薄くなっていくものなのだろうかの想いだった。
いつか、必ず、私も最期の時を待つ時間を与えられる。
その時、なんだな。人の生き方とは。
ハルさんも、父も、母も、私に、人の死に方を教えてくれた。
人は、最期には息を引き取るものだ。
そして、身体は生存を止め、朽ち果てるものだ。
しかし、その時は、既に人はこの身体には居ないものだ。
人は、魂としてここに在る。
やっと身体からの解放を味わい、私の傍らに居る存在となる。
亡骸を見ると、いつもそのことが実感だった。
身体は確かに無くなるものだ。
しかし、その魂は、私の傍に居続けてくれる。
その時から、身体に触り、撫でることはできないが、
私は、父と母との対話が始まる。
魂とは、いつまでもいつまでも愛する者を見守ってくれる存在として、
ここに在り続けてくれる。
死者となり、生きる意味を教えてくれる人となる。
私にとって、父と母の死によって、そのことはより一層リアルになった。
この世だけで生きる存在ではけっしてないんだ。
だから、人は、「善く生きる」ことが使命なんだ。
私は、たくさんの罪を犯し、たくさんの人傷つけ、たくさんの嘘をついた。
でも、今は、そうであったからこそ、その死者のコトバに従われる。
人とは、そういうものなのだから、こそ、「善く生きる」を目指すべきなのだと。
最期を迎えた死者たちは、こんな愚かな私に、
そのことの真実を教えて旅立ってくれた。
せっちゃんも、言葉にならないコトバで、そのことを私に教えてくれている。
死に逝く人は、きっと生きるの意味を生者に教える先生なんだな。
だから、ベッドの傍らに座り、じっと沈黙のせっちゃんを見る。
沈黙で語られるコトバを聴く。
聴こえない言葉は、語られなくとも、確かにここにある。
それを感じて、分かり、忘れないことが、生者の使命だ。
このことを人はどう思うかは、その人それぞれの人生だ。
こんなことが、昨日、あった。
「せっちゃん、また美空ひばり、聴きたいな。歌ってよ」と、お願いした。
その内に、私も自転車の疲れで、心地よくうとうと眠くなり、意識が遠ざかった。
すると、聴こえるのだ。せっちゃんの発する声が・・・・。
「ああああーー、あああー、あああ・・・・・」と。
それは、せっちゃんの歌だった。
確かに、それは、ただの「あああ・・・」だったと、
人はのかも知れない「ああ」だったかも知れない。
でも、私には、せっちゃんの美空ひばりの歌だった。
死に逝く人と共に居る時間に、奇跡はリアルに起きるのだ。
このせっちゃんの美空ひばりを、
きっと私は一生忘れないと思っている。
願わくば、今日も、せっちゃんの歌を、聴かせてもらいたいものだ。-
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