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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2019/10/15 05:46:15

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    創造はどこから生まれるものなのか

    さてさて、ずっと創造とは、どこから生まれるものなのかと考えていた。

    日曜日に、私のヨガマスターである真下恵さんのパフォーマンスだった。
    自転車で砂丘館に行った。
    座敷でそのコンテンポラリーダンスは始まった。
    彼女は、すーっと日常から異界に自然に入って行ける人だ。
    Sをテーマに動きは構成されていた。
    動き。それは、きっと彼女の意図というよりか、
    彼女の奥の奥から発せられる「はたらき」に促されるものだ。

    私は、小さく小さく彼女の身体の動きに合わせて、身体を動かす。
    すると、その動きの気持ちよさを感じられる。味わえる。
    何だか、その動き一つ一つが必然で、意味があるものだと感じた。

    きっと彼女は冷静に彼女をどこかに置きながら、
    その身体を空にして、無にして、
    そう突き動かされ、そう変化されて、その一つ一つを見つめ、味わっている。
    その瞬間、瞬間に、その動きは創られ、
    彼女自身もその発見に驚き、感じ、味わっている。

    それは、確かに彼女が創っているものではあるが、
    それは、彼女だけで創れるものではないもののようだ。
    その彼女を内から促し、彼女をそうさせている何かが、
    きっとそのはたらきの主。なのではないだろうか。

    幼き頃の彼女に戻り、彼女は母親と邂逅する。
    こうまでして突き動かされ、促され、動かされている原動力。
    その一つが母親との想いであること。
    赤いその部屋での彼女の仕草、たたずまいが美しい。

    それから、noisumだった。
    彼女は何かに憑りつかれた者のようにして、
    激しく、刹那に、その主にのっとられたまま、
    踊り続ける。動き続ける。顕れ続ける。
    それは、きっと巫女が荒ぶる神にのっとられた時の、
    露わな姿、動き、激情。

    私は、自然に、黙ったまま、涙が溢れ、頬をつたった。
    それは、きっと私の内なる主が、
    その彼女の無我夢中のその踊りに、
    自分自身の姿、顕れを観たからなのではないだろうか。

    創造は、この主から生まれる。
    この主が、選んだ表現者が彼女だった。
    彼女のしなやかで鍛えられたその肉体を、
    その原初的なパッションが、彼女だと選び、インスパイアする。

    「踊ろう」と決めた。
    「作品を創作しよう」と考えた。
    「物語なんだ」と思った。
    「それでは、そのコトバをどうした動きで表現するか」考えた。
    「こうかな。これはどうかな」との試行錯誤の連続、連続。
    「やっぱりだめだ」で、またぶち壊し、無にする。
    「これだ」というものに出会うまでの長い長い創作の苦しみ、苦難。
    「そうか、これをやりたかったんだ」の深い深い気づき。
    自分を捨てきる作業を経たのち、やっとその司る主が顕れる。

    後は、主のなすがままだ。
    それは走り出したペンのように、すらすらとどこまでも行く。
    彼女は、その主と一体となる。
    向こうから呼びかけるものではなく、
    内から、彼女の深くから、そうなっているものとして、突き動かす。
    私が、これを書いている時に、時折感じる、あの感覚だ。
    「誰が、これを書いているんだ」との驚き、不思議さ。

    しかし、完成した動きとは、きっと彼女も感じていないことだろう。
    ほんの小さな動きにも、瞬間で目には見えない動きにも、
    彼女はきっと瞬時に考え、意味を持たせる。
    意味のあるものにする作業こそ、
    お客さんを前にして踊る、その瞬時の瞬時の創造だった。
    私は、その瞬間に出会っている。
    それは、消えるものだ。無くなるものだ。二度と出会えないものだ。
    同じものは絶対に不可能だ。
    そのここだけ、これだけだけに、全知全霊を賭けて踊る。

    創造は、その主がするものだ。
    自分がするだけなら、それは単なるつくりもので終わる。
    本物にはならない。つくりものは、虚しいものだ。
    そこには、魂が存在していないからだ。
    在るべきものは、在るべきだ。
    しかし、そのことを決めるのは、自分ではない。
    その自分を在るべきものを在るべきものとさせる表現者として選んだ、
    この魂の主が、自分を選んでくれたから、
    きっとそのものはここに顕れ、たとえ一瞬であろうともここに存在していた。

    そうした瞬間を目の当たりにして感じられた時、
    私の魂は感じ、震え、歓喜して、涙をにじませる。
    その涙が在ると言うことは、私もその魂を与えられているとの証だった。

    何だろうなぁ。
    私は、いつもいつもその魂と共に歩いていたいと願っている。
    そして、私が魂ならば、もうここからは彼女のように、
    ただ魂の命ずるままに、突き動かされ、促され、
    そのコトバのままだけで生きたいものだとも想っている。

    そうやって魂のままに動かされて忘我となっている彼女を観て、
    私は、想像する生き方を、そのままを、そこで観たと感じた。
    そうなんだ、きっとそうなんだ。
    日々は、どうしても想像する生き方そのものであればいいんだ。
    それはきっと、特別なことではなく、極々この日々そのものに、
    意味を味わいつつ、私も生きること、そのことなのではないだろうか。

    そうした原初の素朴でピュアな生活の仕方を、
    私は、彼女の踊りに触発されて、思い出したのではないだろうか。
    結局のところ。
    私が、どう生きているかの問いなんだな。

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