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  • from: クマドンさん

    2019年12月31日 06時11分05秒

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    「1つ」と「同じ」

    2019年12月31日午前5時32分。
    いつものようにこれを書いている。

    外は、冬型の気圧配置のてめ、久しぶりの冬の風。
    昨日は穏やかだったので、50分間のウォーキングだった。
    返って来たから台所の大掃除をと思っていたら、
    妻に拒否をされた。
    「私が、やる」とのこと。

    そのために、午後の予定がキャンセルとなり、
    私は、「いだてん」の東京オリンピック編を観ていた。
    私は「いだてん」が好きだ。
    この田畑や嘉納オリンピックに向けた熱い、熱い想いが好きだ。
    改めて、官九郎脚本の凄さを感じた。
    私にも書きたい物語がある。
    私は、来年には官九郎のように、面白く、わくわくとして、
    いつの間にか感動して、涙する。拍手する。そうした物語だ。

    それから、ロマのはるかなる音楽の旅を観た。
    ロマの旅はインドから始まっていると言う。
    ハンガリーには民族音楽としてロマの音楽が演奏される。
    しかし、それはハンガリーの伝統の音楽としてだった。
    彼等は移動する少数民族として差別され、
    社会主義国の中では、社会の底辺に追いやられて生きた来た人たちだ。
    その哀しみに、その辛さに、その苦難に、
    ロマたちは、音楽で耐えて生きて来た。
    その伝統の音を守り、受け継いで来た。
    「哀しさの極みに美しさが在る」
    その旅をしたバイオリニストの言葉だった。
    私も、そうした哀しみと美しさとが一体となった音楽を歌いたいと願っている。

    ここに居ながら、過去に旅をした。
    そして、そこに生きた亡くなった人たちの生き様に感動し、涙した。
    東欧の小さな村に生きるロマたちの楽団だ。
    今でも稼ぐものが、一族全ての生活を養っていることを当たり前としたいる。
    貧しいし、明日をも知れないその日暮らしだ。
    しかし、誇りをもち、人としての信念を貫き、伝統を継承している。
    その生き方が、実に潔く、美しく、儚かった。

    何だろうなぁ。
    入院中に発見したことが、「みな1つなんだ」ということだった。
    上手くは説明できないが、きっとみんなは、その「1つ」の顕れなんだ。
    その1つとは、「同じ1つ」だ。
    きっと全ての人は、その「1つ」を持たされて、この世に生まれた。
    だから、その「1つ」を持たない人は、1人も居ない。
    誰もが、きっとこの「1つ」で出来ている。
    きっとこの「1つ」を生きている。
    ただ、忘れているだけだ。知らないだけだ。気付かないだけだ。

    しかし、その「1つ」にはっとすることがある。
    それが、感動である。涙である。哀しさであり喜びである。
    私は、もう既にこの世には居ない、50年前の人たちに深く深く共感する。
    ハンガリーの田舎を旅するロマたちの哀愁に感動する。共鳴する。
    死者たちと言葉も分からない外国の人たちと、
    私は、「同じ」自分自身をそこで感ずる。
    泣けると言うことは、深く深くリスペクトできるというひとは、
    「同じ」ということ。「1つ」ということ。
    その確認なんだなぁと、やっぱりドラマやドキュメンタリーを観て、そう思ったる

    脚本を書いている時の話だ。
    私は、自分が書いた登場人物の台詞で泣く。
    いや、私がもし感動できなかったら、それは、書く必要のないものなんだ。
    それが、この「1つ」や「同じ」を顕わにした物語でなかったら、
    私は、感動しない。涙も流さない。深く深くリスペクトはしない。
    「お前が書いている物語なのに?」と、きっとそう想われるだろうが、
    実は、そうなんだ。
    今も、そうだが、書いているのは私ではなくなる瞬間がある。
    その「1つ」や「同じ」が語りだす時だ。
    その時は、任せる。委ねる。ただ、私は記録する。書き続ける。

    真実である人生。善である生き方。美である生き様。
    これも、きっと「1つ」と「同じ」の顕れなんだ。

    入院中にSさんからの「問い」だった。
    文化の「文」とは、いったいどんな意味があるのかと言う。
    「文化」「文明」「文学」「文字」「文書」等。
    「文」がその源にあり、
    その「文」を何物かに変化させ、明らかにし、学び、字に顕し、書き残す。
    それでは、この「文」という一字で表されているものとは、
    一体何なのかの「問い」だった。

    私は、その「文」そのものの意味を知らない。
    しかし、きっとこの「文」を発見した人にとっては、
    その「文」が私の「1つ」や「同じ」と、不二ではないのかの気付きだった。
    それは、「不生の仏性」であり、「仏心」であり、「独座大雄峰」でもある。
    「廬山は煙雨 浙江は潮」でもある。
    その「1つ」と「同じ」があることを「信じられる」ならば、
    「いだてん」の金栗も田畑も、ロマの音楽家や旅をする鋳掛屋家族も、
    みな同じなんだと、そう思う。

    その「1つ」と「同じ」で生きることだ。
    それがきっと、深く深くで生きることの意味なのだとやっと分かった気がした。
    「俺が、俺が」なんかじゃ絶対にない。
    そうした憐れな人間に今年は、何人も出会った哀しさ。
    でも、この「1つ」と「同じ」を大切にして生きている人たちにも、
    私は、出会うことができた。
    私は、この人たちを信じたい。
    「俺が、俺が」の人たちとは、どんなに嫌われても、別れたい。それだけだ。

    さてさて、2020年に、その顕れの物語を私は書けるか。
    今は、その訪れを静かに、期待しつつ待っているところだ。

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