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  • from: クマドンさん

    2020年01月12日 07時15分03秒

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    独りぼっちを生きる

    「ひとりでいることができるのは、大きな能力です。
     それは、孤独に直面したときに、それに耐える原動力となる。
     老年期に恐るべきことは、心の貧しさです。
     自分のために生きるというなかには、何もしない。
     ぼんやりと時間を過ごすと言う選択肢も認められるべきである。」
                            竹中 星郎

    昨日、何気なく机上を整理していたら、
    こんなメモが見つかった。
    このメモをいつ書いたのか、どの本からの抜粋かすっかり忘れてしまったが、
    この言葉と出会ったとき、きっと、「あっ、これだ」と感じて、
    このメモに残したのだと思う。

    そして、その言葉とまた昨日偶然に出会った。
    そして、この言葉が、再び深く私の心をとらえた。
    言葉とは、不思議なものだ。
    一日の生活でどれだけ数多の言葉と出会っているが、
    心にヒットし、書き留めておこうとする言葉は、どれだけあるのか。
    だから、私は、この言葉との出会いを感謝している。

    この言葉には、私は、深く深く共感するものがある。
    私は、「独りで生きる」ことを肯定することから、
    自分自身を素直に認め、愛することができると思っているからだ。

    誰かに頼ろう。誰かと一緒でいないと不安だ。独りは、寂しい。孤独過ぎる。
    そうした思いで生かされていた時が私にもあった。
    本当に独りぼっちになってしまうと、
    その誰かや何かを外に求める気持ちが強くなる。
    そして、その欲求が満たされないと、不安になり、焦りさえ生まれる。

    すると、人が羨ましく感じられる。
    きっと今頃、彼は、家族と楽しく過ごしているのだろうなぁ。
    きっと彼女は、誰か好きな人と会っているのだろうなぁ。等等。
    余計な妄想に憑りつかれ、自分のことが哀れに感じられたりする。

    独りには、「ぼっち」がついている。
    「どうせ私には、友も居ない」
    「どうせ私なんか、独りぼっちがお似合いだ」等等。
    その「ぼっち」には、自分自身を憐み、否定する感じがたっぷりと感じられる。
    人は、誰かと居ないといけないのか。
    人は、独りぼっちでは生きられないのか。
    人は、独りぼっちをみっともないと感ずるのか。

    しかし、ある時から、私は、変わって行った。
    それは、独りぼっちとは、本来のあるがままの人の姿ではないかと、
    そんな当たり前のことに気付いたからだ。
    実は、独りぼっちでない人は、1人もいない。
    みんな本当は、独りぼっちなんだ。
    しかし、独りぼっちの寂しさに耐えかねて、
    2人、3人ぼっちになるけれど、
    やっぱり何十人集まっても、独りぼっちは、独りぼっちだ。

    私は、コミュニケーション能力に問題があったのか、
    対人が苦手だったのか、
    何だか自分から人に声をかけられず、かけても会話ができず、
    人からの言葉で傷つくことも多くあり、
    中学・高校・大学と、人間関係で屈折して生きていた時代が長かった。
    きっと今の私からは創造できないだろうが、
    私は、独りであり、その独りの辛さ・寂しさの中で生きていた。

    いじめられていた、というのでもなかった。
    しかし、人の楽しく談笑している輪の中に自分から入れなかった。
    学食でも、孤食のことが多かったな。
    その独りであることが、そのことが、人目を感じて気になった。
    不安定な精神状態だったんだと思う。
    きっと自分に自信がなかったのだと思う。
    それでも、朱には交わらず、孤なる道を独りとぼとぼと歩いていたな。

    しかし、その時、感じたことが、今の私の根本を作っていると、
    今では、言える。
    孤独であったから、本を読み、映画に出かけ、音楽を聴いた。
    そこに、何か深い深い答えをきっと求めていたのだと思っている。
    答えを求めていたということは、「問い」をもっていたということだ。
    私は、きっとその「いかに生きるか」の問いに促されて、
    精神の放浪を独りで続けていたようだ。

    それはそれは、長い長い時間だった。
    独りぼっちであることは、独りぼっちで生きられる力を培うということだ。
    「人生は、苦なり」と、仏陀は、明確にこの人生のあるがままを語った。
    「人は、独りぼっちだ」も、やっぱりこの人生の明確な事実なんだ。
    しかし、独りぼっちを恐れ、みっともないと感じ、不安で、焦るその人は、
    独りぼっちになりたくないために、人に会い、刺激を求め、SNSをする。
    誰かと疑似的にでも繋がっていないと不安になる。
    自分だけ仲間はずれ、のけ者になってしまったように感ずる。
    だから、常に誰かと遊ぶ約束をして、人の輪の中に自らを置く。

    しかし、その心の深く深くの孤独感と虚しさとは、
    そうすればするほど、埋まらない。
    もっともっと切なく、虚しくもなって行く。
    そのことも、「苦」であると、ちゃんと仏陀は語っている。
    実は、独りぼっちから逃げ回っている人は、
    自分の魂を豊かに養い育てる機会を逸して来た人たちなんだ。

    魂は、魂と向き合い、語り合い、対話する中でしか、
    自覚されず、成長しない。
    魂の土壌は、独りぼっちそのものなんだ。

    いつからか、そんなことを私は、思えるようになった。
    独りぼっちだから、ここで、こうして、自分自身と向き合っている。
    独りぼっちだから、ここでこうして魂との対話を行える。
    独りぼっちだから、こうして朝日の訪れを心静かに待つことができる。
    独りぼっちだから、本当の人生の味わいを味わうことがでくる。
    そう思うと、独りぼっちこそ、人にとっては尊い状況なのだと言える。
    独りぼっちをどう楽しむか。
    それは、退職してからの、私の日々の修業となっている。

    中学校で、酷いいじめにあい、深く心を傷つけられた中川翔子さんが本を出した。
    いじめられているときは、独りぼっちが苦しく、辛かった。
    人から、独りぼっちでいる自分を見られたくないので、休み時間トイレに隠れた。
    しかし、30歳になっている今は、独りぼっちがとても楽しい。
    自分の好きなことに没頭できる。
    何よりも人のことを気にせずに、独りで自由気ままに生きていける。
    だから、今、独りぼっちであることで、悩まないで欲しい。
    苦しまないで欲しい。
    いつか大人になった時、きっと分かることがある。かな。

    私は、彼女にも深く深く共感し、リスペクトする。
    私は、そうやって深く考え、深く生きた人たちは、
    その人自身に、生き抜いて来た強さや逞しさが、培われていると信じている。
    それは、死にたいことも、逃げ出したいことも、あったことだろう。
    私にも、何度もあった。しかし、死ななくてよかった。生きていてよかった。
    この景色は、生きて来たからこそ、味わえる景色なんだ。

    62歳の私は、「何もしないで」「ぼんやり過ごす時間」が多くなっている。
    今日は、Sさんと電話で話し、教会で礼拝し、松浜で「賢治の会」で賢治を読む。
    「欲はなく、けっして怒らず、いつも静かに笑っている」だな。

    独りぼっちは、いいものだ。
    しかし、その最中に会って、死にたいと感じている人たちには、
    ただ「死なないでください」としか、私は言ってあげられない。
    でも、私がそうであったときに、私の哀しさ、辛さ、苦しさを感じて、
    本当に涙を流してそう言ってくれる人がいたら、
    きっとその時、私は報われ、救われるのだと、今も思う。

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