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  • from: クマドンさん

    2020年01月16日 05時35分15秒

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    「語ること」と「話すこと」

    自分の気持ちを語る。
    しかし、語るためには、聴き手が必要だ。
    聴き手を見る。
    その相手にとって、今、語りたいことを話す。
    その言葉、一つ一つを吟味しながら、相手に語る。
    すると、何か、相手に届いたという実感を感ずる。

    一仕事を終えて、同僚と話をした。
    日頃の酒についての話だった。
    彼は、昨年とまで管理職として仕事をしていた。
    よく生き残ったなぁと、私は感じている。
    この立場にある人たちのストレスを知っている。
    大きな責任と、社会的な重圧を日々感じて生きて来た人だった。
    今は、ただの人。
    何だかとてもすっきりと、自由に生きている。
    彼とは、話した。

    不思議なんだが、語ることと、話すこととは、違うのだろうかの問いだった。
    私は、ここでは相手が居ないが、語っているつもりだ。
    子どもたちに対してもそうだ、
    ダジャレの連発は確かに在るが、
    語っている時は、真摯に、真っ直ぐに、1人1人に向き合って語る。
    しかし、同僚とは、やっぱり気軽な話しだった。
    私は、語っているのではなく、思いつくまま話をしていた。

    何を言いたいのか分からないが、
    きっとその一日の中での「語る」と「話す」の比率なのではないかと思う。
    「語る」には、この字の中に「吾」があるように、
    私がその時、気付き、発見した、大事なことが含まれている。
    というか、本当に私が感じた「生きるとは何か」が、
    語られる内容だった。

    話すとは、「舌」である。
    それは、時々、どうでもいい無駄話でもある。
    その場を明るくするための、失敗話でもある。
    それを軽いとは言わないが、まぁ、あってもなくてもいいかなぁの話だった。
    きっと人は、この「語る」と「話す」を意識的に使い分けているようだ。

    できれば、私は、語り合いたい。
    本当に、その人の深い深い「いかに生きるか」の話を聴きたい。
    そして、人とは、ここで書いているような、日々の本心を語りたい。
    そして、そうした語りの中で、深く共感しながら、
    新たな自分自身を発見したいと願っている。

    何故、これをここに書いているのか。
    それは、きっと私と言う人が、語りたい人だからだ。
    そして、語りたくない人は、実は、1人も居ないのではないかの問いだった。
    みんな、本当は、本音を語りたい。
    それは、自分のことを知ってもらいたいから、分かってもらいたいから、
    それではないかと、私は思う。

    「プロフェショナル」で、引きこもり支援の男性のことを伝えていた。
    彼の仕事は、長年ひきこもっているその人に、
    語ってもらう仕事でもあるかもしれなかった。
    そのために、扉のこっち側で、何年も待つことがある。
    呼びかけはするが、信頼されまで、信じて待つことが仕事だった。
    扉の向こうで蹲って、10年・20年と引きこもっている人は、
    本当は、人と繋がりたい人で、自分の語りを聴いてもらい、
    理解してもらいたい人なんだと、思う。

    その人たちにとっては、無駄話、世間話は、苦痛だった。
    きっとそうした話が出来ず、学校や職場で人間関係が築けず、
    傷ついた人たちが多いからだ。

    人と人との本質的な繋がりには、自分自身を語るということが、
    何だか不可欠な条件ではないかと、私は、思っている。
    表だけでなく、裏も見せる。
    カッコいいところではなく、心の隠された闇も見せる。語る。
    深い深い嘆きや苦しみ、絶望と孤独、無力感を、語る。
    人には悟られたくない、みっともない自分自身を語る。

    語るとは、きっとそういうことであり、
    語ることによって、初めて人と人とは信頼し合い、分かり合える。

    だから、自分の想いをどれだけ、粉飾せず、薄っぺらでなく、
    痛みをもって、本音で相手に語ることができているか。
    人と人との繋がりの根本は、ここからしか始まらない気がする。

    それは、きっと夫婦でもそうだし、親子でもそうだし、
    友と呼ばれる人ともそうだろう。
    本音で、自分の裸を語った人とは、私は、安心して付き合える。
    そんな罪深い、どうにもならない、みっともない私。
    それでも、どこかに善さを認め、まぁいいかと、諦めつつも、
    好きになってくれる人とは、かかわれる。付き合える。語り合える。

    もう一つは、その語りを親身になり、本気で聴いてくれる人のことだ。
    私は、私を語り切れる人とは、
    私の話を、何も言わずに受け入れてくれる人のことだった。
    それは、我が侭な願いであることはよくよく分かっている。
    しかし、「そうか、そうだったんだ」と、
    納得し、理解し、「分かった」「辛かったな」と、言ってくれる人。
    その人が、聴き手であっら、語りの相手であったら、
    私は、きっとその時間を充実した、救われた時間として忘れない。

    そして、そうしてくれた相手のことを、好きになり、
    きっと深く深くでリスペクトして、また会いたくなると思う。
    人は、心の奥では、きっと誰もが、
    こんな自分のことを分かってくれる人を求めているのではないだろうか。

    話の人とは、きっと表面だけのお付き合いとなる。
    お互いにワハハと笑っていても、
    それでは、二人で飲もうかねぇとは、ならないものだ。
    しかし、語りを聴いてくれる人とは、違う。
    また、会いたくなる。また、語りたくなる。好きになる。

    これって、人と人との関係作りの中で、
    大切な根本・根源なのではないだろうか。

    だから、歳をとればとるほど、語り合える人とだけ語りたくなる。
    話だけの一過性のその場限りの人たちとの会には参加したくなくなってくる。
    それは、きっと熟しつつある魂の欲求なのだと、私は思う。

    人は、自分の語りを黙って聞いてくれる人を心から求めている。
    そして、その語りを批判せず、ジャッジせず、
    「そうだね」「私もそう思うよ」と、
    ただ言ってくれる人のことを、人は好きになり、愛するのではないだろうか。
    その人と、「語っている」のか、「話している」のか。
    まぁ、その比率が、大切なんだと、私は思った。

    話すことは、大切なことだ。
    引きこもり支援の彼は、とりとめのない話をしていた。
    しかし、肝心なところで、支援者に語らせていた。
    そして、その語りを黙って、深く肯きながら、聴いていた。

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