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  • from: クマドンさん

    2020年01月30日 05時34分22秒

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    信じられるかこの「私」を

    昨日、現場に復帰した。
    二日間のご迷惑をお詫びした。
    本当にいつもいつも誰かがカバーしてくれている。
    そのご恩を忘れないことだ。

    昨夜、学びの時があった。
    本心でいられるこの場は、私にとってはとてもとても大事な場だ。
    そこに集う人たちもそうだった。
    自分が自分でいられる。
    その自分をお互いにリスペクトし合い、認め合える。
    何だか、同じなんだなぁと、ふと感じた。

    宿場では、違うということが、いつものことだ。
    みんな私と違っている。
    それは、お互いがお互いで感じ合っていることだ。
    だから、深入りしない。
    話すことも、その先には踏み入れない。
    ストップ。ここまでのボーダーラインだ。

    そのことで、お互いの関係をスムーズにする。
    言いたいことは、言わない。
    例え、腹が立つことがあっても、腹に押し戻す。
    いつもお互いに気持ちよく仕事したい。
    だから、本音はここではご法度だ。

    しかし、この学びの場に来ると、ほっとする。
    何だか自然のままの自分で居られる。
    その居心地の善さが、私たちをここに集める。
    今は、わけあっての週一回の会となった。
    こうして意識して聖書を学んだことは、かってなかったから、
    私にとっては、とてもとても新鮮な学びだった。

    「信ずる」とは、どんなことなんだと、考えている人たちもいる。
    「信じたい」と心から願い、求めている人も多い。
    「信ずること」を偽善的に現して生きている人たちもいる。
    しかし、本当に「信ずる」でなければ、安心はその人にはきっとないだろう。
    私が知っているある人は、信じているようにみせかける。
    どれだけ自分が立派な信徒であるかを誇示する。
    しかし、その人は、自分自身と神様とを騙すわけにはいかない。
    信じられない心をもつながら、信者であると言う嘘偽りを逆に信ずる。
    そんな欺瞞をよく感ずる。

    しかし、この人たちは、そうではなかった。
    本当に「信ずる」とは、どういうことなのか。
    それは、この人たちとの交わりを通して、きっと誰もが感ずることだろう。
    つくり、「信ずる」を頭で考え、分析している内は、
    自己矛盾を起こし、信ずるとは一つには絶対なれない。
    「こうこうだったら、私は、信ずる」
    「こうだったなら、私は、信ずる」
    しかし、そうした説明や解釈を求め、他者にその証明を求め、
    理知的にそのことを明らかにしようとメスを握っている人には、
    絶対に「信ずる」は、やって来ない。

    「信ずる」は、私がするものではなく、
    それは、やっぱり向こうから、選ばれた人にだけやって来るものだからだ。
    という、素朴な真実を、私たちは、共通理解しながら、
    お互いに本心を語り合っている。
    自分を語れることの幸いを、私は、ここで感ずる。
    この同じことを、世間で語れば、また数多の誹謗中傷・バッシングだ。
    「何言ってんだ。分かりもしないくせに」
    「いつもあいつは口ばっかりだ」
    「偉そうなことばっか言ってやがる。反吐がでるぜ」と、
    ある人がまた陰で言っている声が聴こえる。そういうものだ。そういうものなんだ。

    だから、ここだけ、この人たちとだけ、分ち合える。

    昨日、こんな話をした。

    二日間、夜中に激烈な腹の痛みだった。
    それは、突然、やって来るのではない。
    微かな予兆からその痛みは始まる。
    その予兆を感ずると、私は、はっと目覚める。「来る」と悟る。
    さてさて、その瞬間から、神様に祈る。祈る。祈る。
    「どうか、この痛みを私から去らしてください」と、切に祈る。
    声を出して祈る。呻きながら祈る。
    しかし、痛みは、いつものプロセスを経て、徐々に明らかになって来る。

    その時だった。私は、その痛みを見て見ようと思った。
    そして、身体のどのあたりから、どうやってあの痛みに至るのか、
    観察することにした。
    実体はここにある。
    「来た。来た。勘弁してください・・・・。」
    肋骨の下全部が締め付けられる。
    次に鳩尾の胃の辺りをギュウと握りつぶされる感じだ。
    その痛みが、右の腹部の表面を下がって行く。
    そして、ガッと痛みが増幅し、息もできない、声も出せない。
    そして、とにかくとばかりに、トイレに向かった。便器に顔を突っ込んだ。

    それを、観ていた。
    不思議なんだが、痛みとは一体ではなく、痛みだけの私ではなかった。
    脳は痛みセンサーで在り、生存するための司令塔である。
    だから、この痛みの内蔵機と脳とは、同じレベルで直結し、
    連携し、反応し合って、絶えず、感じ・決断し・指令を下し、
    また、リスボンスする。
    生体の生体としての自然な刺激と反応の繰り返しだ。
    それは、必死な回復・蘇生のための闘いでもある。

    しかし、「そうか、こうなるのか・・・」と、
    その闘いを感じつつ、観ている。考えている私が居た。
    私は、その私に、驚いた。
    「あれっ、能ではない、私が、いるねぇ・・・」の実感だった。
    激烈な痛みに苦しむ私は居る。
    しかし、その私を観ている私も居る。
    だから、悶絶する私を、そうかぁと、観られた。

    その「私」とは、一体誰なのですかの「問い」だった。

    こんな話をしたら、他の4人は、真剣に、深く深く共感してくれた。
    その「私」を、彼も彼女もある場所で、ある時に、経験している「私」だった。
    そして、その「私」には、違いはないのではないかという確信だった。
    その「私」で、今、ここで5名は、一つの「私」になっている。

    信じられるか。この「私」を。

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