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  • from: クマドンさん

    2020年04月22日 11時08分11秒

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    今こそ「連帯」する時だ

    さてさて、私には何ができるのかの「問い」だな。
    この非常事態宣言の中にあって、
    私は、日々、我が家に籠って生きている。
    仕事に行っている妻には、その仕事を頑張ればいい。
    社会における彼女の義務と責任だからだ。

    しかし、私には、それが無い。
    というか、こんな状況になるとは想定していなかったので、
    4月から仕事をリタイアすることに前から決めていた。
    私には一つの壮大な計画があった。
    もし、コロナウイルスによるこの不条理な状況でなかったら、
    私は、今頃、旅の途中だ。

    そのことが不可能であるとと、
    絶対に県境を越えるようなリスクを犯してはいけないことも悟った。
    何よりも引きこもることがベタァであると自覚した。
    それで、全ての予定は修正され、訂正された。
    それが、2週間前からの、この巣ごもり生活だった。

    そこで考えた。
    この非常事態で家に居なければならなくなったのだから、
    少しでもこの時間の流れを味わいながら、
    「ああ、今日もよい日だった」と、
    満足してビールを飲むためには、どうしたらよいのかの「問い」だった。

    その時、やっぱり想ったのは、あの長期に渡る入院生活のことだった。
    健康である時の、自由である時の常識を変える。
    いや、その病室のベッドの上での心の満足をどうするか。
    限定され、制約された中での、楽しみ・喜びを見出して行く。
    これは、「夜と霧」で書かれている、収容所での生き方だった。
    つまり、絶望をしない。状況を恨まない。怒らない。悲しまない。
    そして、何か1つ小さな楽しみや感動を大事にする。
    そして、収容所を出たら、あれをしよう、これをしようと、希望を持っている。

    フランクルの言うように、そうした生死の分かれ目である極限状況に置かれた時、
    本当のその人の人間性・人格が現われるということだった。
    それは、カミュの「ペスト」にも描かれていた。
    ペストの恐怖を忘れるために、酒を飲み、仲間と騒ぎ、オペラに出かける。
    現実から逃避するために、快楽を求める。陶酔を求める。
    しかし、酔いから覚めても、この現実には何も変わりが無い。
    それどころか、死者の数が増し、病院は医療崩壊状況となる。

    その時だ、旅人であるタルーは、
    ペストで死んだ人の遺体を処理する保健隊に入った。
    自らペストに感染する危険を犯してまでも彼は志願した。
    それは、見過ごしにできず、そうせざるを得ないと考えたからだった。
    「私は、ここに残ることにした」と、新聞記者のランベールも言った。
    自分はパリに居る恋人に会うために、この街を脱出する算段がついていた。
    なのに、このいつ果てるか分からないペストとの闘いの日々に、
    自分の使命を感じた。

    私は、反抗する。
    それは、私がそうではない、それは違っていると考える、
    世の中の大多数の人たちの意見や考え方に対して異を唱えることだった。
    こうした極限状況になると、人々は疑心暗鬼にかられ、
    正義と言う名の下に、集団となりある種の人たちへの攻撃を始める。
    そうしたイデオロギーや世相によるファシスト的な考えや直接行動を、
    「それは、私ではない」
    「私は、そんなことをするつもりで、ここに居るわけではない」
    そうした世の中の体制・大衆の動きの中で、
    じっとして立ち止まり、蹲り、動かないことは、「反抗的」と呼ばれる態度だ。

    次に、そう想ってこの世の中の動き・大衆の叫びの中で、
    同じように立ち止まり、沈黙を守り、じっと耐え続けてる人がいる。
    その二人がここで出会うことで、「われわれの連帯」が生まれる。
    そして、その深い気付きで連帯した者同士が、
    深く深くで「友情」で結ばれる。
    この「友情」は、決して「裏切らない」確かな絆となる。

    しかし、この大衆に迎合せず、時の権力者に阿らない個は、
    いつしかその大衆や権力者たちから批判される対象となってしまう。
    「お前は生意気だ」「お前は自分勝手だ」「お前は敵だ」
    そして、世の中からのバッシングは、その人の社会的な生命を奪っていく。
    孤立させられ、誹謗中傷の嵐を浴びて、ずたずたに傷つけられる。

    感染した人に対する非人道的・非人権的な行動を、聴くようになっている。
    とてもとても残念な話だ。
    善意でマスクを配布した人を罵倒し、攻撃している映像を観た。
    けっして、こんなことが行われないことを祈っている。
    地域社会において、職場において、施設や病院内において、学校において、
    そうした言動が行われることも現実には予想される。

    その時なんだ。
    黙ってそれを見ているか。
    自分にはかかわりのないことだと見過ごしにするか。
    まさか、自分がそのいじめや暴力の当事者にはならないとは思うが、
    ここでの集団の力は、怖ろしいものとなり、
    そんな大きな流れに巻き込まれて、間違った行動を「正義」してしないことだ。
    これは、現にアメリカのある州で実際に起こっている出来事だ。

    これが実は「心のペスト」だった。
    人道的に、理性的な行動が求められているこの危機的な状況の中だからこそ、
    「正義」の名の下に人々が集まり、差別や偏見による間違った行動を起こしやすい。
    それは、ここ100年間の世界の歴史を振り返ればよく分かる。

    妻は、職場で仕事をしている。
    それは、妻の義務であり、責任であるからだ。
    それでは、この緊急事態の状況下にあって、
    私たち独り独りが果たすべき義務と責任とは何だろうか。
    その「問い」を突きつけられているのが、現在の世界中の人々だ。

    その時こそ、独りで立てる人になってもらいたい。
    デマや偽情報に踊らされず、理性的に状況を判断することだ。
    そして、揺動する言葉には乗らず、
    深く深く「問い」をもって行動を判断することだ。
    今こそ、「まず立ち止まって、考えよう」だな。

    そして、そう想ってタルーたちのように「反抗的」に生きようと想う人たちが、
    お互いに出会いつつ、深く深く「友情」で結ばれ、「連帯」できる社会こそ、
    今は求められているような気がする。

    もし内なる自分自身が「ざわめく」なら、
    その声に素直に、黙って、聴き従うことが、私の生きる道なのだと、そう想った。

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