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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2020/05/14 06:39:07

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    庭で学ぶ

    そろそろハローワークかな。
    就活をせねばならないとは思いつつも、
    今、ここ、自己のこの生活を楽しみ、味わっている。

    隣の家の木造の壁にペンキを塗りに来た若い職人さんだ。
    真面目にとにかく黙々と仕事する。
    それなのに、隣の家の親父は頭に黄色いタオルを被り、
    いつもクラシックをかけて、庭でせっせと何かをしている。
    花の世話をしていたり、樹木の剪定をしていたり、草取りをしていたり。
    何とも暇な親父なんだと、きっと想われているのだろう。

    それは、それでいい。
    私は、君たちと同じ頃、必死で、せっせと働いた。
    それだけだ。
    今は、62歳となった。
    身体もあちらこちらに不具合も起きている。
    こうして日中、ぼーーーっと生きていたところで、
    別に気にもしないで欲しいと、我が道を行くだけだ。

    毎日をこうして時間の流れに身を任せながら、
    流れるままに生きていると、
    何だかあの仕事に在って忙しさの最中には絶対に気付かないことに、
    たくさん気付くことができて、在り難くも感じている。
    走り続けていたら、この味わいには気付かずに終わるだろう。
    これは、立ち止まり、佇み、腰を降ろしてじっと見つめて、考えた、
    この間やゆとりがなかったら、気付くことのない大事なことだった。

    みんな変化するものだ。
    ずっとそのままであることは絶対にあり得ない。
    春を迎え、夏に至ろうとするこの季節に、
    草花は盛りを迎える。元気に力いっぱい天を向く。
    これは命の在り様の1つだ。
    しかし、いつしか、秋になり、冬を迎える。
    その時は、衰え、痛み、枯れて、去って行く。
    消えて無くなる。

    しかし、しっかりと根を張って生き続けるものもある。
    試練は誰にでもやって来る。
    その試練をどう生き抜けるかだ。
    その試練に「意味」を見出したものだけは、
    その試練に耐えられる力が与えられる。
    試練は、根っこを強くたくましく育ててくれる。
    軟なものは、生き残れない。
    だから、人には、命には、試練が与えられる。

    色がある。違いがある。全ては個性だ。
    違うことをそれぞれが生きている。
    違うことは、気持ちがいい。
    みんなそれぞれがそれぞれの命を生きる。
    それが、いい。

    それなのにお互いに確かに支え合い、助け合っている。
    助け合わなければ、弱いものは生きてはいけないからだ。
    だから、お互いを認め、お互いに仲良く、お互いが持つ力を出し合う。
    違うことは、個性的であることだ。
    個を生きることは、孤を生きることでもある。
    しかし、自然は孤のままにはしない。
    いつでも全ての繋がりの中での命として個を生かしているからだ。
    あの花だって、大地で繋がる。雨で潤う。風に揺れる。

    成長には時間がかかる。
    種を撒いたから、直ぐ翌日に芽が出るわけではない。
    だから、気をもんで待っていても仕方ないのだ。
    「なるようになる」「なるようにしかならない」
    こうして気温が上がり、暑くなって来たら、芽がどんどん出て来た。
    プランタの中は、ちっぽけな芽でいっぱいになった。
    間引くにはまだ早い。
    もう少し育てて、根がしっかりとはり、茎が強くなった頃がその時期だ。
    だから、「じっとその時まで、待つ」ことが育てる私の心得になった。

    とってもとってもまた生える。
    それはこの庭の野草たちのことだった。
    生きることとは、生きる力を与えられていることの証明だ。
    その力を神から与えられているから、ここで芽を出し、育つばかりだ。
    先週草をとった場所には、既に、新たな小さな芽がいっぱい出ている。
    その根性と逞しさに、私はかえって学ばされる。
    「へぇ、やるなぁ。生きてるなぁ」だった。
    生きているなら、余計なことは考えなくてもいいと思う。
    生きるものには、ちゃんと生きる力は神が与えてくださるからだ。
    「明日のことは思い煩うな」だな。

    「無心」であることは、気持ちいいことだ。
    ビオラもパンジーもスノーポールも、
    無心でまっすぐ天を見て、生きている。
    浴びているのはお日様であり、神の愛だな。
    ああ、愛されずに生きているものは一つもここには存在していない。
    全てのものは、神の愛だ。
    そうすると、私も同じだな。
    ビオラもパンジーもスノーポールも神の愛を全身で受けている。
    ならば、私も愛されて生きているに違いない。
    「無心」であることとは、その神の愛を確信することである。

    違っていても、みんな一つなんだ。
    一つから全ての命は生まれているんだ。
    そう想うと、この庭の花たちも、野草たちも、種目の葉っぱたちもね
    みんな同じ仲間に感じられる。
    すると、愛おしさが増してくる。
    一つの命として、個を生きる。
    同じ父から生まれた兄弟姉妹だ。
    ブラザーサン・シスタームーンだな。
    そこから生きている命を見ると、全ての命は私の隣人となる。
    語り掛けられる。分かち合える。
    そんな「喜び」も感じられる。

    さてさて、こはみんな庭で生活している私が、花たちや雀たちから学んだことだ。
    自然とは、やはり偉大なる師なのだ。
    そう考えて自然の命やその営みを見つめていると、
    生き死にのとてもとても大事な「意味」を学ぶことができる。

    本当に、「死に行くものとして、今、ここ、自己を生きる」ことの大切さなんだな。

    ペンキ屋さんの若い職人さんは、黙々とドアにニスを塗っていた。
    62歳のリタイアした親父は、庭の立って、ぼーっと花を見つめていた。
    ペンキ屋の職人さんは、「あの親父、暇なんだなぁ」と思ったことだろう。
    私は私で、そんなことを考えながら、庭の椅子で雀を見ていた。

    仕事をしている間は、この庭の偉大なる命の「意味」には気付かない。
    それは、仕方ないことだ。私も、そうだったからだ。
    生活することは、働いて、収入を得て、お金を使うことでもあるからだ。
    しかし、生活を離れた、この庭には、
    何だかそれまで気付かなかったが、
    学ぶべき「意味」に溢れていたと言うことだった。
    それは、私のようにリタイアしなければ、分からないことでもあった。

    「生きよ、考えよ」かな。

    一昨日の午前にその職人さんが、全ての仕事を終えて帰って行った。
    私は、門のニスを塗ることを頼もうとしていたが、
    タイミングが無く、頼むことができなかった。
    彼は、次の現場に行き、私は、昨日も今日も庭に居る。

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