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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2020年06月22日 07時17分21秒

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    「言葉」と向き合う生活を

    昨日の夕方5時から、
    旧豊栄の友人Kさんと、Zoomでのちょい飲みの会をした。
    この会が始まったのは、stayhomeのおかげだった。
    退職した彼の慰労会をと思っていたが、
    外出禁止の戒厳令下だ。
    そこで、ヨガのレッスンで学んだこのZoomに注目。
    パソコンの得意な彼は、直ぐに習得、直ぐに繋がった。

    不思議な気分だった。
    彼の日常生活に私は、立ち入っている。
    写っているのは、彼の部屋だった。
    そして、二人で乾杯をしてから話を始める。
    お試しタイプだから、60分間しか使えない。
    だからからか、凝縮した濃い話が続く。

    まぁ、私が一方的に話していることが多いようで申し訳ないが、
    こうして彼と、Zoomで繋がった。
    もし、このアイテムがなかったら、
    「いつか、飲もうな」で、疎遠になっていた可能性もある。
    また、私が電車で豊栄まで毎週飲みに行くわけにはいかない。
    つまり、こうして深く深くを語り合えるようになったのは、
    この新型ウイルスのおかけでもあった。

    私は、この二カ月半のstayhomeの生活で随分変わったものだと感じている。
    この「親父たちよ」がまずそうだった。
    私は、ここに書き込みながら、考えている。
    考えながら書いている内に、自動的に言葉が湧いて来ることがある。
    Sさんによく話をするのだが、
    身体が気持ちよく感ずる言葉は、
    そのままここに書き込めるが、
    そうでない言葉は、書いていても気持ちよくなく、指が止まる。
    だから、いつも身体に聴きながら書いていますということだった。

    すると、身体は身体として刻々と変化している。
    その変化とは、とてもとても自然なことだった。
    「ゆく河の水は、もとの水にあらず」だ。
    そうやって、今、ここの、身体の言葉を顕わにする。
    すると、私は身体から何かを教えられ、
    その気付いたことを、ここに「言葉」に顕す。
    すると、はっと気付くのは、私だった。

    そのための時間を今は、たっぷりととっている。
    気付くと7時15分だったりする。
    3月まではもうすぐ学校に到着する時刻だった。
    生活の流れが変わったことで、
    私は、身体の声を聴くようになった。

    それから、身体の変化につれて、その変化するままに生きていると、
    同じようにして日々刻々と変化する自然と出会えた。
    そうやって庭を見つめ、野菜たちの世話をゆっくりとする、
    そうしたゆとりの時間は3月まではなかなかなかった。
    だから、この身体と自然の命とのシンクロには、
    なかなか深く気付かないで生きて来た。

    つまり、私は、私として、
    これも同じように日々変化しているということだった。
    人は、変わらない。
    これは、大間違いだ。
    昨日の私と、今日の私とは、全く変化した違った人間だ。
    それはそうだろう。
    全く微細まで同じコピーができるわけはないからだ。
    まず、私の身体は、変化し、衰え、老いている。

    昨日の身体は、もう今は、無い。
    今、あるこの身体も、刻々と変化しつつある身体だった。
    同じものは、どこにもないのだ。
    そう感ずると、花やカボチャや雀たちとも御同胞だ。

    だから、その変化する身体に聴くことで、
    今、ここの、私が何でありつつあるのかが、わく分かる。
    いや、感じられる。
    そして、その感じたままに、素直に従って生きようが、
    私と小千谷のSさんとの確認事項だった。

    そう考えながら、分かったことがあった。
    それは、この身体の「言葉」を言葉として語る時に、
    通じる人と、全く通じない人がいるということだ。
    こんな私の「親父たちよ」を面白いと感じてくれる人は、
    きっと身体の「言葉」を感じられるマイノリティーなのかも知れない。
    「そうだよなぁ」「分かる、分かる」という共感ができる人は、
    きっと、私たちと同じ身体の「言葉」を感じている人だけだろう。

    頭でものを考える人たちは、
    頭で考えて決めつけたことに執着して、縛られている人たちだ。
    「この時、こうすることが当たり前。」
    「みんながそうしているから、そうしてください。」
    「決まっているでしょう。」
    ここから抜けられないその不自由さに気付かない。

    私たちは、身体の「言葉」で生かされる。
    その大多数の人たちは、頭の言葉や他人の言葉で生かされる。
    しかし、養老さんが言っているように、
    情報は固定して、変化をしない。
    決められたことを決められたまま生きている人たちは、
    その決められたことにだけしばられて、変化することを恐れるようになる。

    しかし、身体の言葉で生かされている人は、
    この身体の日々の状態のように、
    その日その日、その時その時、感ずるままに変化する。
    変化することを喜んでいる。
    潔く変化する。
    すると、自然のみんなと御同胞となれる。
    まさに賢治の自然観だな。

    しかし、この頭で人間が勝手に作りだした情報は、
    実は、ご都合主義で創られているから、
    人が変わると、それも変わる。
    世の中のことを振り返ればそうだと思うはず。
    この頭で考え出された思想やイデオロギーほど、
    全く当てにならないものはないのだ。
    こんなことを信じているから、予測不能の明日におろおろとする。

    しかし、身体の「言葉」で生かされている人たちは、
    変化しているようでいながら、
    実は、この普遍なる身体の「言葉」のおかげで、
    何も変わらず、愚かなる世の中が紆余曲折しながら迷走しても、
    どんと座って、腰を降ろし、
    本分であるその「言葉」で生きることができるのだ。

    この「言葉」太古から。
    いや、この世界が生まれる前から、不変なる「言葉」だった。
    そして、私もSさんも、この普遍であり不変である「言葉」を感じた。
    そして、その「言葉」が、私たちが日々出会てる自然の命の源でもあると、
    何だかだんだん分かって来たから、面白くなった。

    人は無上の中で、流転して、変化して、この世からいつか消え去るものだ。
    しかし、本当の私。
    「言葉」で生かされている私は、
    きっと死んでも死なない私だと、庭を見ながらよく思う。
    「言葉」になればいい。
    「言葉」のままで生きればいい。
    「言葉」ままであればいい。かな。

    そうすると、生まれては、消え、生まれては、消える、
    この命の大いなる循環の中の私として生きられる気がする。
    頭を捨てる。
    そうしなければならないを捨てる。
    昨日までの私を捨てる。
    明日のことをくよくよする私を捨てる。
    すると、今、ここ、わたししか居ない。
    そのわたしすら、捨てられたらもっと楽なことだろう。

    禅の師が語った言葉。
    「大きな川の流れ。そこに現われる泡。それが私たち人間です」
    「その泡は、その川の流れに流されるまま流れて行く」
    「その内に、時至れば、ぱちんとはじける。消えて無くなる」
    「どこに行くと思いますか」
    「またその大きな川の流れに戻っただけです」

    「法という文字を考えてください」
    「さんずいに去るですね」
    「つまり、大きな川に流されて、泡となり、ぱっと消えて元に戻る」
    「そうした生き方こそ、法なのだ、ですね」

    「私たちは小我で生きています。俺が、俺がの生き方ですね」
    「大我は違います。大河とは本来の自分です」
    「つまり、人は本来の自分で生きられるのに、小我に執着しています」
    「本来の面目、それを悟るための日々の修業です」

    「身体ですね。身体がぱっと動く、感ずる」
    「頭で考えて動いていたら、余計なことが入り込みます」
    「ぱっと音を聴いたら、ぱっとその動きをする」
    「道場で言葉で言わないのは、音に即反応する身体を造るためです」
    「修業とは、そのことなんですね」

    今、ここに、別々のことを記しているようだが、
    本当は、一つのことだけを語っているのに過ぎないんだな。
    絶対に一つなんだ。
    一体が生きているんだ。
    その一体を、自らの身体を探究しながら、感じ、考える。
    それが、「言葉」としての人の役目ではないだろうか。

    だから、私は、ここに「言葉」を日々紡いでいる。
    昨日とは、違う私が、今、ここで、感じた「言葉」に促されつつ。

    例え、離れて居ても、豊栄のKさんとも、小千谷のSさんとも、
    一体の同じ「言葉」で語り合っている。
    そのことは、人としての喜びであり、感動であり、感謝だと思う。

    stayhomeで、私は、よりいっそう深く、静かに、
    この「言葉」と向き合うことができたようだ。

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