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  • from: クマドンさん

    2020年06月30日 07時19分17秒

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    「子は親の鏡」なんだなぁ

    「いったい、人間はどうやって間違った方向に行ってしまうのだろうか。
     原因はいろいろあるが、やはり親の生き方そのものが、かなり影響を
     与えているようにわたしは思う。たとえ片親でも、その親が人生というものを
     しっかりとみつめて生きて行く時は、子どももいつの間にか親にならって
     いるものだ。両親がそろって、経済的な安定があっても、母親が父親を
     バカにして、子どもに父親の悪口を言って聞かせたり、父親が母親を
     どなりつけたりしている家の子どもたちは、案外非行に走るものらしい。」

    「つのり、父と母の間が、しっくりと行っていない時は、おとなが考えている
     以上に、その子の性格はどこか破れてくるものだ。両親が愛し合っていて、
     まじめな職業についているのに、子どもがおかしくなるということはまず
     あり得ない。よく、わたしは親たちに言ったものだ。」

    「親は針、子どもは糸ですよ。親の進んだように、子どもは進みますからね」

    「また、小学校時代には大したパッとしない子どもでも、年齢と共に着実に
     伸びていく生徒がいる。そういう家は、けっしていわゆる教育熱心な教育
     ママのいる家ではない。落ち着いた雰囲気の家庭であって、小さな樹が、
     大きくなるように、自然に伸び伸びと育っていく。まだまだ若い木だと
     思っていた子どもが、思いもかけない大樹に育っていることがある。
     その子は必ず、親思いの子である。そして、教師思いでもある。」

    「親孝行でありながら、横道に外れたという子どもなど1人もいない。
     親に心配をかけるまい、親を喜ばせてやろうという子どもは、非行に
     走ろうとしても走れないわけではないか。その姿を見ていると、わたしは、
     あらためて、家庭というものの大事さを思う。利口ぶった母親が父親を
     けなして、子どもを自分の味方につけようなどと考えている家庭に、
     親孝行は育たない。その母親まで、子どもは軽べつしてしまうのだ。」

    「また、兄弟の1人を偏愛する親も、けっして珍しくはないが、そんな家庭も
     親孝行の子どもはでない。親自身が怠け者であったり、粗暴であったり、
     不まじめであったなら、これは、むろん論外である。」

    「わたしの教え子の1人は、母親が近所の人と語る時、絶えずうわさ話を
     しているのに、わが親ながら、憎しみさえ覚えたという。そのうわさ話
     が悪口であったのはもちろんである。」

    「自分の子どもたちが、将来どんな子になって欲しいと思うならば、鏡を
     みるといいと思う。自分に似た姿が、将来のわが子の姿であろう。姑や
     小姑たちに、親切にすることのできない狭い女心をみている小さな子どもの
     目は、意外に鋭いのだ。尊敬できない親を持つ子どもが、親を大事にしない
     自分勝手な子どもに育って行ったとしても、親は、文句のつけようがないと、
     わたしは思う。」

    「親孝行などというと、今の時代に古くさい話だと思う人がいるかも知れない。
     しかし、聖書には、四、五千年前から、「汝の父と母とを敬え」と、いましめ
     ている。これは、古い言葉だが、何万年の後までも、人間がふみ行くべき、
     新しく永遠なる真理ではないだろうか。この真理の道を、まず親自身が生きて
     行く時、子どもの問題は自ら解決されるものと、私は信ずる。」

    「子どものゆくては、今、親自らが決めつつあるのだ。子どもは、自分の親が
     尊敬できる親であって欲しいのだ。親は子どもに期待しているが、子どもも
     た親に期待しているのだ。」

    「あさっての風」 三浦綾子 著
    その中の「子どものゆくて」という章の抜粋だ。
    この文章の引用を許していただきたい。
    どうしても、原文のまま、ここに記したかったからだ。
    天の三浦さん、ごめんなさい。

    しかし、この言葉の前に、私立ち尽してしまった。
    言葉とは、こんなにも圧倒的な力を持って、私の心に迫るものなのか。

    私は、苦い後悔をもって、この文を読ませてもらった。
    何度も何度も同じ個所を読み返し、赤いボールペンでその言葉を囲った。
    大事な言葉には、その上に☆を書く。
    そうすれば、そのページを開くと、その言葉に真っ先に目が行くからだ。

    実は、学童保育で保父さんをして、私が考えるようになったのは、これだった。
    まだ、6歳、7歳、8歳の子どもたちだ。
    その子どもたちの今、ここは、家庭で育ったことの、今、ここだった。

    この子どもたちが最も影響を受け、感化され、モデルとしたのは親である。
    特に、今は祖父母の居ない家庭で育てられている子が多い時代だ。
    そして、一番愛情を求めているのが、父親や母親に対してだった。
    だから、愛されて育った子は、違う。
    明るく、素直で、落ち着いて、大人たちへの信頼感があるので、言葉が入る。
    いつもいつも反発したり、人に嫌なことをしたり、全く言うことをきかない子もいる。
    それは、そうされて育って来たからだ。

    しかし、その子にもし、そうせざるを得ない「困り感」があったら、
    自分ではどうにもならない無意識のまま動く自分であったら。
    感情も思いも身体の動きをコントロールできない子であったら、
    その「あるがまま」理解して、おおらかな気持ちで親には接してもらいたい。


    「親は針、子どもは糸ですよ。親の進んだように、子どもは進みますからね」
     私が子どもに示した進路とは、どんな道であっただろうか。

    「落ち着いた雰囲気の家庭であって、小さな樹が、大きくなるように、自然に伸び伸び
     と育っていく。」
     そんな家庭で我が家はあっただろうか。

    「親孝行でありながら、横道に外れたという子どもなど1人もいない。」
     そうだと思う。では、私が私の両親に対して親孝行はできていたのか。

    「自分の子どもたちが、将来どんな子になって欲しいと思うならば、鏡をみるといいと
     思う。」
     私のようになる。私は、人としてちゃんと誠実に生きているのか。

    「この真理の道を、まず親自身が生きて行く時、子どもの問題は自ら解決されるもの
     と、私は信ずる。」
     私が人に優しく、困っている人を助ける人なら、子どももそうなる、はずだ。

    「子どものゆくては、今、親自らが決めつつあるのだ。子どもは、自分の親が尊敬でき
     る親であって欲しいのだ。親は子どもに期待しているが、子どももた親に期待してい
     るのだ。」
     この言葉が胸に刺さった。私は、子どもから尊敬される人であるのか。
     私は、何だか、そう考えると、子どもには何も語れないような気がする。
     28歳と24歳の長男と次男だった。
     さんざん私の愚かな姿を見て来た二人だ。
     それでも、今でも、期待していてくれているかの「問い」だな。

    「子育てとは、親育てであり、自分育てである」と、誰かが言っていたような・・・。

    子どもたちは、いつも絶えず、育ててくれている親に「問う」ている。
    その「問い」を真摯に受け止め、
    「ああ、そうだなぁ。まずは、わたしがちゃんと人として生きることだなぁ」
    「つまり、生きている姿、その後ろ姿で、伝えることだなぁ」と、
    生き方の「問い」を忘れず、人としての生き方を全うすれば、
    三浦さんではないが、「非行に走ろうとしても走れないわけではないか」だな。

    「子は、親の鏡」だ。
    その子を見ると、「ああ、わたしだ」と、分かる親はまだ救われる余地がある。

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